学校は何のため?①
このことを考えない日はありません。(嘘です。考えない日もあります。)
私がこの問いに答えるとしたらこうです。
社会としては、自由の相互承認の感度を養う場所
個人としては、自由になるための力を養う場所
よくわかりませんね。特に1文目が。このことを今日は書いていきたいと思います。
社会としての人々の共通、そして永遠の願いを一言で言うならば、「平和」ではないでしょうか。この、人々の平和への願いが学校を生み出したのだと思います。
「平和に資する人を育てるところが学校である」と言い切るのは行き過ぎでしょうが、そこまで大きく的を外してはいないと思います。
教育基本法第一条にはこう記してあります。
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
「平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備え」ることが人格の完成と受け取れます。つまり、この人格の完成は目的でもあり、平和のための手段でもあるのです。
平和のための人格の完成を目指すのが学校です。
そして、平和に資する人格とは「自由の相互承認」の感度が高い人間なのです。
この「自由の相互承認」について説明するためには、2文目の「個人としては、自由になるための力を養う場所」ことに言及しなければなりません。
人は自由を欲する生き物です。ここでいう自由は「自分の思う通りに生きる」ということです。「~になりたい」「~したい」という願いは誰しもが持っています。
例えば、大きなレベルでは医者になりたいという自由があるでしょう。しかし、医者になるための力がなければその自由は満たされません。
小さなレベルでは「あの遊具で遊びたい」という自由があるでしょう。しかし、先に誰かが遊んでいたときこの自由は容易には満たされません。
そして、この自由への欲求は、場合によっては平和よりも命よりも上位の欲求になるのです。捉え方によっては最上の価値ともいえます。
宗教戦争を例にとってみましょう。
A「あそこの集団は我々の信仰するものを信じていない。それは、間違っている。変えさせよう。」
B「あちらの集団がこちらの信仰を変えさせてくる。それは断じて受け入れられない。」
宗教戦争のきっかけはこんな感じなのではないでしょうか。(実際には宗教が政治利用されているのかもしれませんが・・・。)
ここでは、Bのある宗教を信じたい(=自由)という思いが、別の集団Aによって侵害されようとしています。Aから見ると自分の信じるものを信じさせたい(という自由)が満たされていないと考えてもいいでしょう。
個人レベルではどうでしょうか。先日の理科の授業でこんな一幕がありました。
風の力で風車を回す実験でした。Aさんは最初に送風機の強さを「強」にして実験をしたいようです。ところが同じグループのBさんは「弱」からはじめたかったのです。
残念ながら学校には送風機がグループに一つしかありません。3年生の子供にとっては、これは一大事です。二人は言い争いになってしまいました。
この場合もお互いの自由(送風機を弱・強にしたい)がぶつかり合っていると考えていいでしょう。
平和がくずれるとき、それは自由が損なわれるとき(あるいは損なわれそうなとき)と言えます。これは、人の自由への欲求が非常に高いことを示唆しています。
理性ではなく感覚としては、人は平和よりも自由を大事にしているということです。場合によっては人は命を賭しても自由を求めます。虐げられた者たちが立ち上がる話は歴史に山ほど残っています。
人は根源的に自由を欲しています。平和よりも、場合によっては命よりも。
つまり、平和と自由は対立する場面が多分にあるのです。
人が自由を求める限り、平和は訪れないように思えます。
どうすればいいのでしょうか・・・?
こうした疑問を考え続けてきた学問があります。それは哲学です。そしてこの哲学が(哲学の歴史としては)最近になってこの問いに一つの答えを出しました。
それが自由の相互承認なのです。
長くなったので続きは次の投稿で