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子ども主体の保育とは何かを図にしてみた
子ども主体の保育。
保育者なら一度はきいたことがあるはずだ。
でも、どのようなものが子ども主体の保育なのか、考えてみると意外と難しい。
そもそも主体って何? 自由保育とは違うの? じゃあ一斉にやる活動はだめ?
多くの疑問が浮かび上がってくる。
私も多くの本を読む中で、子ども主体の保育の構造が明らかになってきた。
これが子ども主体の保育である。
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これだけだとよくわからないかも知れないので、説明していく。
まず、前提として、保育者と子どもの信頼関係が必要である。
信頼関係がなければ、どのような保育も成り立たない。
では、どのように信頼関係を作っていくのだろうか。
それは、保育者が子どもに対して、「共感的なかかわり」を行うことからである。
子どもの遊びや、考えに対して、同じ目線になりながら、一緒に喜び、驚き、ときに遊びながら関わる営みである。
このような共感的なかかわりに対し、子どもは「応える」それは表情であり、仕草であり、言葉であり、あそびとして応える。
保育者はその応えに対し、さらに共感的なかかわりを行なっていく。
このような循環が、やがて保育者と子どもの信頼関係につながっていく。
この信頼関係を通して、保育者は子どもは「わたしたち」になっていく。
「わたしたち」が同じ対象に関わるとき、「わたしたち」は思いを巡らせ、対話を重ね、さまざまな可能性の中で、さらに「望ましい対象」が浮かび上がってくる。
このとき、「望ましさ」は保育者だけでなく、子どもだけでなく、信頼関係に結ばれた「わたしたち」の「望ましさ」である。
そうして浮かび上がった「望ましい対象」を保育者は一歩先に目線を送っている。
そして、保育者は子どもに「望ましい対象」をいざなうのである。
これが、子ども主体の保育である。
抽象的な話になってしまったので、イメージが湧きにくいかもしれない。
一つ具体例を出そう。
A先生とBくんは砂遊びをしていた。
Bくんは砂遊びが大好きで、毎日園庭に出ると砂場に行き、じっくりと遊んでいた。
そんなBくんに対し、A先生は寄り添っていた。
Bくんが作り出す砂の作品を驚きながら見つめ、ときに質問をしながら、あたたかく関わっていた。
あるとき、Bくんは砂山を作ろうとしていた。
A先生も一緒に砂山を作る。
二人で、シャベルを使って、なんとか高い山を作ろうとする。
だが、砂が乾燥していたのか、高く盛っても崩れてしまう。
強く固めてみよう、違う砂を使ってみる、大きいシャベルを使ってみる。
二人はさまざまな可能性を考え、実行するもなかなかうまくいかない。
そんな中で、「みずをつかってみようよ」とAくんが話す。
だが、水を入れてしまうと崩れてしまうかもしれない。
そんなとき、A先生は一つアイデアを思いついた。
「ちょっと待っててね」
A先生は事務室に行くと、霧吹きを持ってきた。
「これを砂にかけてみようよ」
「うん、わかった」
砂山の表面に霧吹きで水をかけると、良い感じに固まってきた。
そこから、少しずつ砂山が高くなっていった。Aくんは夢中で霧吹きを使っている。
「A先生、やった!」
Aくんの背丈より高くなった砂山に満面の笑みが浮かんでいた。
このような場面、見たことがないだろうか。
保育者のみなさんが、主体的な保育を考える上で、参考にしていただけたら幸いである。