20210620日記が書けるようになった
人は色んなセメントを落とされて形作られる(ミステリということなかれ 2巻より)。これはどうも外向きな自分のことなんじゃないかと。そんなことを考えていたら、自分の内向きのベクトルの存在が自我を目覚めてきて。この内向きの自分には何もセメントが落とされていないようだということに気づいた。外部の人が落とすのは、僕への対外関係の部分に落としているようだった。
日記は今までずっと書くのが苦手だったのも、このセメントに落とされたもののせいで、「日記とはこうあるべき」と思っていたからだったのかな?と思ったら急に書ける気がした。内向きの自分に書かせてみようと思ったら、書く気満々なので、noteにメモをすることにした。
で、日記についてのセメントというのは、多分小学校の夏休みや、朝の会であった日記を書くという行為。小学生に文章を書く行為をさせるためにできごとを書かせるんだけど、それが僕には何か辛いことで、自分の見たことを誰かに見せるために書くのが辛かったようだった。そんなことで今まで日記が書けなかったけど、それに気づいたらどってことなくて、これは多分外向きの自分のセメントに落とされた穴を克服したのではなく、内向きの自分が書いているから。でも穴があることが分かってしまえばそこまで難しくないかな。
大西和尚が言葉は思った時点であるという話をしてくれた。それを発するかどうかは別なこと。だけど言葉はもう心の内にあると。これも喋れないのは色んなセメントが落ちていたからなのかもしれない。そんなことを考えていたら言葉を書けるような気がした。
絵が見える。といのは記憶のストレージや、翻訳の時に絵を挟むからで、これを絵が見えるとしている。絵が見えれば、これを絵のまま表現出来るし、何語にも訳せと言えば訳せる。みんなそうかと思ったらそうでも無いらしい。
対馬に来てから自分のことを考える時間が格段に増えて、自分の内側を見つめる方法も何となく分かるようになってきた。
思ったことをメモできるようにnoteを始める。
今日見たもの
カラスの巣の巣立ちを見忘れた。
スズメはシジュウカラの雛を引きずり出して巣を乗っ取るらしい
僕は全てを自分で決断しようとしていた
2人で作り上げていくものが結婚なのかな