ワタクシ流☆絵解き館その175 第三編・備後三原城絵図から見えて来る縄張りの秘密(三の丸編)。
先ず初めに、毛利元就と小早川隆景、この親子の肖像を並べる。次に、二人の顔を両端にして、真ん中に二人の顔を薄く重ね合わせたモンタージュを置いてみる。
当然ながら、親子とはいえ、瓜二つということはない。
元就は、眉の上の骨格に厚みがあるが、隆景はその部分に丸みがある。似ているのは、目が鼻梁に寄り気味なことと、鼻筋が長めであることだろう。両者の肌の色が対照的だが、隆景は生涯戦場に身を置いた武将だから、実際は肖像画のように色白ではなく、元就の肖像のように日に焼けた顔をしていたと思う。
毛利三兄弟と称される、毛利隆元、吉川元春、小早川隆景のうち、肖像画から見てもっとも親父に似た顔をしているのは、隆景という印象がある。
■ 三の丸の三角形の形状はなぜ?敵をあえて誘い込む?
と、ここまでは、備後三原城築城の主、小早川隆景をちょっと知ってもらうためのお遊び。ここから三原城の防御構造を探る本題へ。
城の絵図で見ると、三の丸の端はきれいな三角形である。形状として珍しい例だ。やはりこの設計原案も隆景の股肱の臣、浦宗勝によると推定する。
敵が東大手門を破り、西国道を本丸方向へ進む。しかし後藤門で塞がれ天守台から撃破されるとしよう。
いったん後方の東大手門方向へ退く。そのときの攻城法として、防御が手薄に見える場所を選び、犠牲を覚悟して兵を進めそこから突破する、という戦術を考えるだろう。
その手薄に見える場所が、三の丸ではないだろうか。下の図で示したように、まるで敵を誘っているように、堀の幅が、三の丸に面した部分は狭く造られている。また二の丸本丸が多門櫓構造なのに対し、三の丸は、低い石塀くらいはあったかもしれないが、防御力では劣る構造と言える。
この絵図は、幕末慶応年間のものである。三の丸の多門櫓構造は築城時からなかったことを語るだろう。
なぜ堀の幅がここは狭いのか、なぜここは多門櫓構造でないのか、その答は断定しかねるが、切羽詰まった際の「肉を切らせて骨を断つ」という思想の元に、敵勢を一か所に引き付ける役目を三の丸に持たせているのかもしれない。
また三の丸の正門を破り、三の丸まで入りこまれた場合を想定した上で、二の丸本丸へは絶対入れさせないという発想が根底にあるだろう。
三角形の場所だと隅はきゅうくつで、兵は中央部に固まりやすいだろう。そこを二の丸から銃撃する。前回の記事で述べたが、二の丸より、三の丸は低い位置にあり、敵は格好の銃弾の的になる。
■ 多門櫓の続く構造と、むき出しの場所の隣り合わせ
すでに述べたとおり、攻撃する二の丸側は多門櫓 (上の図) で囲われ ているが、銃撃される三の丸と東築出の二の丸の堀に面した側には、遮蔽物がないのがわかる。わずかに植栽が見えるだけだ。
二の丸側から言えば、三の丸は奥まで見通せる。この状況で銃撃戦をすれば、圧倒的に三の丸側にいる方が不利だ。
令和4年8月 瀬戸風 凪