ワタクシ流☆絵解き館その253 青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ⑥ 義憤
🔵🧿「ワタクシ流☆絵解き館」は、地味な読み物ですが、それでも私の記事を開いてくださる方には、感謝しかありません。
私が大いに恩恵を受けているnoteの記事には、時間かけてるなあ、熟考してるなあ、とわかる質の高い内容のものを提供してくれるライターがいて 、それなのにそういう記事はなかなか取り上げられていないのは、ほんとうに惜しいことです。
同感して下さるライターたち、密かに、なのかもしれませんが、素晴らしい記事と気づいてくれる人は必ずいます。がんばれ!
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さて本文。
このシリーズ記事では、年代を追って青木繁の芸術の深き理解者、高島宇朗の足跡をたどって来たが、今回は、青木繁の没後間もなくの頃に立ち戻ってみる。
青木繁について語った下記の一文を取り上げる。
🔹 発行年月 1918 ( 大正7 ) 年11月
🔹 掲載雑誌 自由評論社の「自由評論」第6巻第12号
🔹 タイトル「真っ赤な椿」
🔹 執筆者は「T生」
この一文は、青木繁の死を憤死という思いでとらえている追想の文章だ。
文中に出て来る『青木繁畫集』( 政教社ーこの文中では啓成社となっているが記憶違いであろう ) は、青木没後の1913 ( 大正2) 年に刊行されていて、この一文が書かれるまでに5年の歳月の開きがある。
その間、この執筆者は執筆者云うところの「狭量なる畫家文人」によって画集に添えられた青木追悼文の人物像に、物足らない思いを持ち、もっと言えば、真に青木を知り得ていない怒りを抱き続けていたわけで、( 青木繁を真に知るは我一人のみ ) とでも言うべき思いの激しさに、青木繁に接した人の中から、生涯にわたり青木を思い続け、文章に書き残した親愛な愛好者支援者が生まれた根源を見る。
▽▽ 一読して執筆者の真の名がひらめいた。高島宇朗に間違いないと。
私が高島宇朗と感じた理由、そして、おそらく当時の人はすぐに執筆者は高島とわかったであろうに、実名を秘さざるを得なかったと考える理由は以下のとうりだ。
➡ 1. 全文に漂う漢語の教養
➡ 2. 表現力を判断し得る韜晦で文飾性の高い言い回し
➡ 3. 青木周辺にいた文学者への不信感を露にしていること
➡ 4. この文に書かれた「青木繁画集」には、執筆者はかかわらなかった様
子であること しかし発刊は気に留めていること
➡ 5. 青木の若き日の生活の内情をよく知り得ていること
➡ 6. 実名を秘した理由は、青木周辺にいた文学者への批判を半分意図して
いる点から、実名表記は軋轢を生むと考えたたこと
➡ 7.T生とは高島のTに通ずること
以上の条件をみな満たすのは、ひとり高島宇朗あるのみだ。
その一文を掲げる。漢字は旧字混じりである。読みやすくするため行間を空けた。
文章の意を読み解く
🔘 上の一文の中で目に止まるのは、「彼が九州の某中学の畫 ( え ) の教師をしてゐるときに」とある部分だ。高島宇朗は、互いの故郷久留米では青木に面識はない。青木が上京したのちに、東京で出会っている。
これは、高島宇朗が、青木から聞いた話なのだろう。しかし、青木は18歳で画家になろうと上京しているので、いつの時代の話なのか判然としない。青木18歳、明治32年2年中学明善校を退学、同年5月に上京しているので、その間3月から4月しか、該当する期間はない。
🔘 『青木繁畫集』で追悼文を書いているのは、
画家では、有島壬生馬 ( 有島生馬 )
詩人では、蒲原有明
岩野泡鳴
木下杢太郎
その他では青木絵画の収集家で青木の同級生でもある梅野満雄
上記の人たちが、「狭量なる畫家文人」と評されているわけだ。
高島宇朗が詩人であり、その自恃心と感性の違和感から、上述の詩人たちになおさら反発を強めたとして、わからなくもないが、青木の絵を後世に伝えるために、私財をなげうって守って来た梅野満雄に対しては、あまりに哀れすぎる言である。
🔘 高島宇朗にも『青木繁畫集』並びに青木繁遺作展に、所蔵している作品の借用依頼があったこと、しかしその依頼を黙殺して、これらの開催出版に力を尽くした青木の画友たち、とくに坂本繁二郎、正宗得三郎たちを憤慨させたことが、昭和61(1986)年、福岡ユネスコ協会刊 竹藤寛 著『坂本繁二郎とその友 : 芸術をめぐる悲愴なる三友の輪』に詳述されている。
高島宇朗の胸中には、「狭量なる畫家文人」に坂本繁二郎、森田恒友、正宗得三郎らの名もあったかもしれない。
🔘 文中の「しかも、彼生けるの間、小さな閥や嫉妬の扉の中に住して、他を容るるに吝 ( やぶさか ) なる藝術の子等は、彼を遇するに酷であつた」という部分に浮かぶのは、『わだつみのいろこの宮』を三等賞末席にしか遇しなかった東京勧業博覧会の審査官たち ( 岡田三郎助、和田英作、満谷国四郎、中村不折など )、さらには大師匠たる黒田清輝をさすのであろうが、坂本繁二郎、正宗得三郎らもまた、彼らにつながる、いわば「同じ穴のムジナ」に見えていたのではないか。
青木が、東京勧業博覧会の選考結果に憤慨して、すぐさま友人の森田恒友が発行していた美術雑誌「方寸」に寄稿し、審査官たちに対し「大家は退化なり」などと辛辣に揶揄したのと同じ気分を、高島宇朗が持ち続けていたとわかる。
🔘 高島宇朗が、『青木繁畫集』並びに青木繁遺作展に協力しなかったのは、竹藤寛 著『坂本繁二郎とその友 : 芸術をめぐる悲愴なる三友の輪』では、高島宇朗が所蔵する青木絵画を明らかにすれば、作品の返還を遺族が求めて来て、いざこざが生ずるのを恐れたという見解を理由として述べておられ、同書には、実際に、青木家の遺族 ( 弟が中心 ) が、友人らの手に渡っている青木の絵の所有権を主張し始めていたことが書かれているが、高島宇朗にすれば、どこの誰が自分ほど青木の制作を初めから援助し、認め、守って来たか、という自負から、絵に将来の金銭的価値を見込む欲得の思惑が透けて見えて、何を今になってと、理屈ではない嫌悪の感情に満たされていたからでもあると思う。
🔘 執筆時、大正7年当時の高島宇朗はどういう境遇にあったのか詳細はつかめない。まだ久留米にいて、高島家所有の畑で、蝋の原材料である櫨栽培を糧にしつつ参禅の日々を過ごしていたかと思う。ひとつの手がかりとして、実弟高島野十郎に、大正9年 (1920)制作の「絡子をかけたる自画像」という法衣を着た絵があり、参禅に没頭していた宇朗の身辺に野十郎もあった証になるだろう。
「自由評論」への執筆は、依頼原稿には見えない。このコラム「真つ赤な椿」は同人執筆の頁の一角を占めており、定期購読者としての投稿記事ではないだろうか。
🔘 青木の故郷久留米は椿の産地である。便所の扉に描いた「真つ赤な椿の畫」とは関連はないが、青木に「椿の花をもつ女」という絵 ( 大作の下描き素描と推定される ) があるので、下に掲げておく。
令和5年12月 瀬戸風 凪
setokaze nagi