ワタクシ流☆絵解き館その123 皇紀2600年、赤城泰舒(あかぎやすのぶ)の描いた富士。
先ず記事のタイトルから説明しよう。
皇紀2600年とはつまり、昭和15年、西暦では1940年である。皇紀は明治5年に政府が定めた日本の紀元で、神武天皇が即位した年を皇紀元年(西暦では紀元前660年)としている。
この昭和15年に「国民奉祝歌 紀元二千六百年」という歌が作られた。その歌詞の一節にはこうある。
「潮ゆたけき海原に 櫻と富士の影織りて 世紀の文化また新た 紀元は二千六百年 あゝ燦爛のこの國威」
翌年12月8日には太平洋戦争開戦となる。力こそ正義の帝国主義にからめ取られていた時代であった。戦いやむなしという思想のもと、国民が一丸であることを強要した時代、日本人の統一民族性を鼓舞するものとして、富士が使われていたと言えよう。
赤城泰舒は、静岡県出身の洋画家。明治22年―昭和30年、65歳没。明治42年文展で「高原の朝」入賞。以後帝展、二科展、光風会展などにも出品。雑誌「みづゑ」を編集し、日本水彩画会創立に参加した。
今日語られることが少ないのは、正統性ゆえだろうか。魅力のある赤城泰舒を知ってもらうため、水彩作品を2点掲げる。
冒頭に赤城の版画の富士を掲げたのは、筆者は、その絵と同じ1940年制作の、赤城の水彩版の富士を所有しているからである。2点は、同時期の取材の成果であろう。その絵を下に掲げる。
この絵では、画家は制作年を西暦ではなく、二六〇〇年とサインしているのだ。先に挙げた「国民奉祝歌 紀元二千六百年」の歌詞にある気分を反映したサインの仕方であろう。
なお、富士の雪形は、朝日を受けた茜色に塗られていたのではないかと推定する。そういう気分が感じられる絵だ。筆者が入手した時にはすでに退色していた。
筆者は赤城泰舒が、政府の国威発揚の政策に、富士を描くことで積極的に加担したと言いたいわけではない。
版画「富士」の方は、1939年から日本各地の名所を、版画のシリーズ物として制作したその1枚にすぎない。ただ水彩「富士」の方は、皇紀で制作年を描き添えていることから考えれば、皇紀2600年を祝う趣旨の頒布会で売られた絵画なのではないだろうかとも思える。絵画では、古来より富士は重要な画題のひとつであるが、時代の空気を反映して、(今、描くのにふさわしい画題)として描いている気がする。筆触は、赤城の作品の中では硬いと感じる。
さて、赤城の水彩「富士」は、どこで描かれたものなのか、Web記事「あちこち富士山」を利用して検討してみた。雪形から判断して、おそらくこの辺りとしたのが、山梨県富士河口湖町。参考の風景写真を下に掲げる。
次に、この昭和15年=皇紀2600年や、その前後にかけて、他の画家たちに富士はどう描かれていたのかを探ってみた。先ずは、同年開かれた「紀元2600年奉祝記念展覧会」出品の、今日、横山大観の代表作の一連とみなされている絵を下に掲げる。
大観の「富士」も切手の図柄も、先に挙げた「国民奉祝歌 紀元二千六百年」の中の、「櫻と富士の影織りて」そのままの図柄である。しかし、当時すでに名のあった画家たちを探り見つけた、他の「富士」の絵からは、大観の絵が見せる構えた気分は感じ取れない。
しかし後世顧みれば、当時はまぎれもなく日米開戦前夜の様相を呈していたはずで、下に掲げたそれぞれの絵が、同歌の「あゝ燦爛のこの國威」という気分に乗っているにせよいないにせよ、日本の画家が描くべき画題として、「富士」が強く立ち上がっていたのではないだろうか。
並べた絵を見ていて思う。
暗くも重くもあり、また一方では、艱難排し断固ゆくべしの気概に満ちてもいた時代の空気の中であればここそなおさら、誰に強要されることはなくとも、画家にとって、素直な愛国心から選ばれた画題が、「富士」であったに違いない。
最後に、富士の絵ではないが、戦後の赤城泰舒の作品を下に掲げよう。平和な時代が戻った明るくのびやかな感じが伝わってくる。
筆者は、濁りのない天性の詩情画家、赤城泰舒の絵にいつも心を慰められている。ぜひ、画集をめくってみてほしい。
令和4年3月 瀬戸風 凪
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