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ワタクシ流☆絵解き館その112 青木繁「少女群舞」という一瞬の閃光
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青木繁 「少女群舞」 1904年 東京 府中市美術館蔵
この絵を所蔵する府中市美術館蔵のコレクションの説明で、絵の出来た経緯が示されている。昭和16年の美術雑誌「みづゑ」の記事の引用によるもので、話しているのは青木の昵懇の友、詩人の高島宇朗。
「空は、カラッと晴れあがって、空っ風吹きさらしの、明治三十七年、春まだ浅き、寒く冷たい午後、日没近くであった。青木は、描いたばかりで、絵具の乾かない此の愛らしい油画を、以前から彼が所持していた欅箔置の古額縁の小型な、くすみ剥げたのにはめ込み、長い吊り紐を付け、提げて来て、明かりぐあいを見定め、宇朗が室の一方の柱にかけ下げ、今、関口の滝の近くで、可なり烈しく吹きまくる風の中を、嬉々として快走し去る学校帰りの少女達を見たので、描いて来ました『よく出来ました』と、さも、うれしそうに、ながめ、よろこび、宇朗も一緒によろこんで、話しこんで、やおら其のまま、此の画を置いて、彼は帰った」
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「嬉々として快走し去る学校帰りの少女達少女三人」を見るという日常の暮らしの何でもない情景が、たちまち一枚の鮮やかな板絵になったわけだ。この閃光のようなインスピレーションを受けた背景として、彼が彼が親しんでいたギリシア神話を思うべきだろう。
この時期の彼には、ギリシア神話のさまざまな場面が、創作のコンセプトとして心中に潜んでいて、何かをきっかけにパッと点火されるような精神状態があったと思う。
彼が親しんだ西洋の古典的絵画や、またとりわけ熱中していたラファエル前派の画家たちの作品には、ギリシア神話を題材にしたものが多く、彼の教養の下地に、それはしみ込んでいたと考えられるからだ。
三人の娘たち、喜び、踊るようなしぐさ‥‥そういう要素に該当するギリシア神話はいくつもある。その例を以下の図を掲げて示す。
掲げた絵そのものを青木が確かに画集で見たという証拠は持たないが、これらの神話を題材にした画家の誰かの絵には、画集で接していただろうと推察できる。
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次に、筆触を見つめてみる。ゴッホを連想させるような、粗い、大づかみの筆触。だが、ゴッホが日本人に知られてゆくのは、「少女群舞」創作より少しあとの時代のことだ。
影響を与えたものとして浮かんでくるのは、当時の画壇のリーダーであり、青木の直接の師でもあった黒田清輝の絵。見たものの印象を留めることを優先したコンセプトが見て取れる。その作例を以下に掲げる。
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青木の作品の中の比較で見てみよう。
同じ年に描かれた「運命」もまた、強い筆触を持つ絵だ。引きずるような、小細工を拒んだ色彩の厚みが、相似た情感を通わせていて、この当時の青木の心中を浮かび上がらせる。
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府中市美術館の解説による「みづゑ」の記事の高島宇朗の談では、この絵に後日も手を入れている青木のことが語られている。
「後、一二度、これに加筆した。是が、どこまでも突っ込んで、突っ込んで往って、止まるところを知らざる徹底不撓の研究心、青木の癖だ。(中略)
画面の左端に最初の空色が少しばかり残っている。元来、非常に鮮新なものであったのが、加筆と、経年の変色で重くなった。それでも、さすがに彼凝心の銘作。調子は少しも狂っていない」
出会った情景が鮮烈であり、その印象を何度も問い直すように確かめる画家の姿がある。青木は後年(1909年)「二人の少女」(笠間日動美術館蔵)という絵を描く。この絵は多くの人に親しまれるであろう佳品で、つまらない絵ではないが、筆者の受け取り方で見れば、「少女群舞」を描いた時期の青木なら、「二人の少女」のような描き方でのコンセプトは、浮かびもしなかっただろうと思う。
この1904年(明治37年)の夏、布良に赴き、「海景」や「海の幸」を青木は描く。命の歓喜を描く‥‥青木の画家としての本質にある、その企まざる思いが胸中を満たしていたと思うのだ。その種が実り、朽ちない魅力を放ち続けているのが、1904年に続けて描かれた傑作群「運命」「海景」「海の幸」であり、この「少女群舞」である。
令和4年2月 瀬戸風 凪