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詩の編み目ほどき⑭ 野木京子「花崗岩ステーション」
花崗岩ステーション
野木京子
蓋をしたその下は
見えない砂が流れているだけ と思ったが
蓋はまたたく間に焼け落ち
真っ白な石と砂がむき出しになって並んだ
旅の果てにある駅は
真砂が敷き詰められている
あるいはぶざまにばらまかれている
善いひとにとってもそうでないひとにとっても
駅とはさまざまな心が行き交うところ
花崗岩のかけらが かちかち音を立てている
思い出してはいけない
憎んでもいけない
声を出してもいけない
たとえ燃え落ちたものであっても
蓋はきちんと閉めたのだから
かちかち
少しだけ思い出して
音の響きを少しだけ聞いている
かちかち
少し聞いたそのあとは
鮮やかな色彩の花が
―― たとえばアンデシュ・ダールの花が
揺れていたことだけを
記憶しておく
「詩の編み目ほどき」シリーズでは、新川和江さんとともに現役詩人。野木京子さんはH氏賞受賞詩人。私と同い年の方だ。管理のもとに整然と動いてゆく社会に収まり切らず、溶けこめない思いや感覚を、非現実の場面によって寓意し、ざわざわとした想念へと導いてゆく。
代表詩集は『ヒムル、割れた野原』(思潮社、2006年第57回H氏賞)。最新詩集は2024年3月刊の『廃屋の月』。
この詩は、いかようにも解釈できる詩であろう。詩人が書き続けている作品系譜から詩作動機を考えれば、以下の解釈は的外れの空へ向けて矢を射ているとは承知するものの、野木京子さんはどういう解釈をしても、読む人の受け取り方次第とおっしゃられる詩人なので、私なりの解釈を試みた。
主語を排したこの詩の世界を、地上の具体的な現象としてとらえようとしても、イメージが定まらないが、直感的に受ける映像として、私にはこの詩の奥処から、原爆被災地広島あるいは長崎が浮かび上がって来る。
核ミサイルによる破滅、という脅しを担保にして成り立っている表向きの事もなさに、叛意を突き立てているのではなく、現実を受け入れて生きてゆかざるを得ない諦観の雫が、細く滴っているような詩句である。
以下は、そういう受け取り方による、詩句を区切りながらの翻案である。
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❂「蓋をしたその下は」
それぞれの個体は形を持った造形物として存在しながら、ときに形象定かでない混沌の集積体としか見えない近代都市。蓋とは、街という名の、地を覆う脆い皮膜の別意的表現なのか。
❂「見えない砂が流れているだけ」
しかしその混沌集積体を霧散させず、温床となしているのは、無何有の流沙が現 ( うつつ ) の濁りを濾 ( こ ) し続けているからだ。
❂「蓋はまたたく間に焼け落ち
真っ白な石と砂がむき出しになって並んだ」
そんな温床たる街は、どこまでも肥大する欲望や天災によって、土くれと残骸だけとなる儚さを内層に包み込んで成立している。かって瞬時に蓋は焼け落ちて、現 ( うつつ ) の濁りを濾 ( こ ) す営みは虚無の中に停止した。水も風も奪われた流沙はもはや流沙ではなくなり、ひからびて白々と黙 ( もだ ) した。
❂「旅の果てにある駅は
真砂が敷き詰められている
あるいはぶざまにばらまかれている」
❂「花崗岩のかけらが かちかち音を立てている」
人はひとつの終着点にせんと理想郷を描く。失われてもふたたび温床を造る。そこは叡智の行き着く処のはずである。改悟、懺悔の意志を、幾度も打ち固めて均した上で。
■ この詩句には、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」のイメージが、裏に透かし見で見えて来る。その駅 ( 旅の果てにある駅 ) では、花崗岩のかけらが、賢治の金剛石にとって代わっている。
「するとどこかで、ふしぎな声が、銀河ステーション、銀河ステーションと云ふ声がしたと思ふといきなり眼の前が、ぱっと明るくなって、まるで億万の蛍烏賊の火を一ぺんに化石させて、そら中に沈めたといふ工合、またダイアモンド会社で、ねだんがやすくならないために、わざと穫れないふりをして、かくして置いた金剛石を、誰かがいきなりひっくりかへして、ばら撒いたといふ風に、眼の前がさあっと明るくなって、ジョバンニは、思はず何べんも眼を擦ってしまひました。
花崗岩は、一瞬にしてこの世での命を奪い取られた者の声である。かちかちと音を立てるほどに、花崗岩と花崗岩を打ち合わせるのは、蓋をする者たちの果てない欲望の渦である。
❂「思い出してはいけない
憎んでもいけない
声を出してもいけない」
「いけない」‥‥蓋をする者たちの果てない欲望がそうさささやいている。
今はもういない者、かつての温床の中にいた者たちがつぶやく、温床の中での微睡 ( まどろみ ) や閑話に興じたときの追懐も、それを絶たれたことへの指弾も、ふたたび造られた温床の、ぬるい空間を占めてはいけないのだ。
❂「かちかち
少しだけ思い出して
音の響きを少しだけ聞いている」
短い詩句のうちにある「少しだけ」のかそかなリフレイン。情緒にまぶされた祈念行事と呼ばれる慰霊の営みは、たとえばビルの下にふつふつと結びかつ割れる声を、ビルの上層階の強固なガラス窓越しに、薄く淡く聞くように行われる。
❂「少し聞いたそのあとは
鮮やかな色彩の花が
― たとえばアンデシュ・ダールの花が
揺れていたことだけを
記憶しておく」
■ アンデシュ・ダールはダリアである。下に引いた北原白秋の歌は、きぬぎぬの情の極みを詠むものだ。白秋のダリアは、たとえば岬の浜に船底を見せる舫いの船だとしたら、この詩のダリア → アンデシュ・ダールは、岬の沖を行く船と見ることもできよう。見たこともないゆえになおさら、アンデシュ・ダールの花は、一画を鮮やかな色で埋める。
しかし私には、アンデシュ・ダールの花がダリアと知ったときから、ふたつの花は結びついてしまった。儚いもののはずの花の方が、揺れるものである花の方が、人の情念に対照するように、空間の中に揺らがない実存としてある。
君と見て一期の別れするときもダリアは紅しダリアは紅し
花崗岩のかけらが音を立てているのは、真砂が敷き詰められている旅の果てにある駅なのだろうか。そしてそこにアンデシュ・ダールの花が揺れているのだろうか。
とすれば私の読み解きからは、人々が、ひとつの終着点を思い描いている理想郷に、その音とひかりは悲しく響き瞬いているのだ。この短文の冒頭の、「現実を受け入れて生きてゆかざるを得ない諦観の雫が、細く滴っている」という言は、この終わりの五行の詩句が引く余韻がもたらすものである。
令和6年4月 瀬戸風 凪
setokaze nagi