詩の編み目ほどき⑨ 三好達治「草の上」
三好達治の詩を読み解く連作、今回は、昭和5年12月刊の詩集『測量船』より「草の上」を取り上げる。
ただし単行詩集の『測量船』中には、「草の上」という詩が二編ある。そもそも二編は発表時期が違い、「鵞鳥は小径を走る」以下の連は『詩と詩論』での初出タイトルも、「草の上」ではなく、「PETITES CHOSE」( ※仏語で小さな事の意味 ) だった。
三好達治生存中、たとえば1953年3月刊行の自選詩集『午後の夢』の後記では、こう言っている。
よって単行詩集の『測量船』刊行時のみでなく晩年においても、作品集では同じタイトルで、二編の詩に分かれている。
しかし死後の全集、1964年の『三好達治全集1』では、ひとつながりの詩とみなされ、つなげられて「草の上」一編となっている。
達治の意志は、別々の作品というものだったと思わざるを得ないが、どうして一編にされてしまったのだろう。
ともあれ二編に分かれた形で、以下全行を掲げる。
🔳 モチーフは実らぬ恋心
ひとつながりで読み通しての結論から言おう。「草の上」は、失恋の思いを書いた詩であろうと思う。
詩の背景として考えられる出来事は、次のことだ。
昭和3(1928 )年の春( 達治28歳 )、東大仏文科を卒業後、かねてより思いを寄せていた萩原朔太郎の妹、萩原アイとの結婚を萩原家に申し入れたが、萩原家 ( とりわけアイの母親 ) の拒絶により受け入れられなかった―それゆえの深い失意。
何の障害があっても、アイは自分を選んでくれると信じていた達治の思いは、成就しなかったわけだ。「草の上」は、その失意のあとに書かれた詩である。
「野原に出て坐つてゐると、
私はあなたを待つてゐる。
それはさうではないのだが、」
児童の作文なら手直しされそうな奇妙な表現である。
これは、次のように言い直すと、意の伝わる表現になるはずだ。
「野原に出て坐つてゐると、私はあなたを待つてゐる ( やうな気になる ) 。それはさうではないのだが」
待っているという確信的な気持ちを、言い切りたいという感情が強くあって「ゐる」で止めたのだ。待っている気持ちが「さうではない」わけではなく、会うのを待つために野原にいるわけではないのだが、といういう言い回しだろう。
野原に出ていると、求愛に対する返事を「待つてゐる」気持ちがなおさら胸に突き上げて来るという表現である。万葉集のたとえば次の相聞にある情緒に通ずる思いだろう。
「たしかな約束でもしたやうに、
私はあなたを待つてゐる。
それはさうではないのだが、」
「それはさうではないのだが、」のリフレインは、この恋心を、相手は自分と同じ熱量で受け止めてはいないという諦観のため息に感じられる。
「かなかなはどこで啼いてゐる?
林の中で、霧の中で」
『測量船』所収の一編に「燕」という詩があり、その中で《かなかな》が、こう表現されている。同時期創作の「燕」に現われる《蜩》はそのまま、「草の上」の《かなかな》と見ることができよう。「泪が湧いてくる。」感情なのだ。
また室生犀星の大正12年刊の『抒情小曲集』所収の一編「天の虫」は《かなかな》をうたっている。この詩の抒情は、「草の上」の《かなかな》の声に心をいたぶられている達治の憂愁に通じている。達治が、犀星の詩に共感を寄せていたのは、多くの論著が指摘して来た。
達治は、いくつかの作品では顕著に、犀星からの影響を隠すことなく、その抒情を自分の作品に植え替える営みをしている。
🔳 見定められぬ人生への愁い
「ダリアは私の腰に
向日葵は肩の上に」
ダリアと向日葵が開いている晩夏の、色鮮やかな野。ひとつの句が浮かぶ。
愁ひつつ岡に登れば花いばら 与謝野蕪村
蕪村のこの句の情緒を持ち込んでいるのか。達治晩年の1955 ( 昭和30 ) 年刊の著作『俳句鑑賞』中、「俳句の復興―蕪村とその周囲」と題した文章で、この句について述べている。
「池のほとりの黃昏は
手ぶくろ白きひと時なり」
「手袋白き」は「乞食が通る」の対語的な演出ではないのだろうか。婦人の日焼け防止の手袋を想像する。達治が持っている手袋とは思えない。ましてや季節は晩夏だ。
この詩「草の上」の場面設定として、野、林、寺、池である。そこに乞食が横切り、白さの映える ( おそらく婦人の ) 手袋の情景がある。
相応しい場所の一つとして、上野公園不忍池の風景が重い浮かぶ。ダリアや向日葵が、昭和初期の上野公園に咲いていたかどうかは知らない。しかし、東京帝大に通った達治の青春期を思えば、上野公園は身近な風景であったと言える。
乞食を出し、白さの映える手袋を出しているのは、人生への巨視的眼差しというべきものだろう。人の運命は、どうなってゆくのかわかりようもない、という不安感、恋が成就せずこの先をどのように生きてゆくかという憂愁を、乞食と白い手袋の対照的な表象から感じとる。
🔳 著名な詩作品の詩句が浮かぶ
「草を藉き
靜かにもまた坐るべし」
草を藉く、という漢詩的表現の日本文学における先行例はいくつかあり、その代表は、当時に青年に熱をもって迎えられた島崎藤村の明治34年8月刊行の詩集『落梅集』に、また昭和2年刊の『藤村詩抄』にまとめられてさらに著名になった「千曲川旅情の歌」にある「若草も藉くによしなし」の詩句であろう。
また若山牧水のよく読まれた歌集『路上』明治44年刊にも次の一首がある。
粟刈れるとほき姿のさびしさにむかひて岡にあを草を藉く 牧水
特に藤村の「千曲川旅情の歌」は、発表以来大いに読まれ、草を藉く、という表現を詩歌のポピュラーな言辞にしたと言えるだろう。
ゆえのこの一語を使ったとき達治の心理の内には、「千曲川旅情の歌」の憂愁が通っていると考えられる。下に一部分を掲げる。
また、佐藤春夫、大正10年刊の第一詩集『純情詩集』も、達治を感化しているのは確かだ。「少年の日」という絶唱に出て来る「真ひるの丘べ花を藉き」のフレーズは、「草の上」に響いているだろう。
「古き言葉をさぐれども
遠き心は知りがたし」
萩原家からアイへの結婚の申し込みを断られた理由は、文筆に生計を託そうとしている不安定さである。それも故なき事ではなく、当時の達治に、文筆活動で生計を維持できるほどの実績はない。達治も思うところあったのだろう、この申し入れ拒否を受けて、いったんは、出版社へ勤めている。
そういう時期だから、詩人たるを志した自分の、決意のほどを自覚したい思いがあったのではないか。
つまり、「古き言葉をさぐれども」は、いつ自分が詩人という表現者であろうとしたのかを、あるいは何を書かずにはおれないのかを、自分が書いて来た詩歌や文章の断片から思い直しているという意味であろう。しかし、「遠き心は知りがたし」で、詩人としての揺籃期の思いは、とりとめのないものだと、自覚し直すだけのことであった。
🔳 鵞鳥に投影した恋慕の結末
「我が身を惜しと思ふべく
人をかなしと言ふ勿れ」
人はすなわち萩原アイ。求愛を受け入れてはもらえなかったが、アイのことは責めまい、という思いである。
と、ここで達治の思いでは、「草の上」前編は終わっているはずである。しかし、同題の「草の上」二編をつなげて読む時、次の連に出て来る走る彼女とは、やはり、アイのイメージが重なって来る。
「白い鵞鳥と彼女の影と走る走る――走る」
そして白い鵞鳥とは、達治自身の姿を映したものだと言うしかないだろう。アイもまた、達治には好意を持っていて、結婚話に前向きであった暗示ともとれる。
「ああ、鵞鳥は水に身を投げる!」
しかし、水を前に、鵞鳥だけが水に帰ってゆくという結末。「ああ」という詠嘆は、達治の偽りのない本音だ。「身を投げる」という自発的な意思表現であるところが、泣きたいような傷心を吐露したこの詩を、すっぱりと断つ形で結ぶことを選んだ達治の構えである。
令和5年9月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
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