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ワタクシ流☆絵解き館その248 青木繁の絵に感化され生まれた詩を読む part4
🔶 武田静江 1992年 橄欖社 歌誌「橄欖」1月号投稿歌より
小題「海の幸」
夭折の青木繁の描きたる「海の幸」布良の浜のくらがり
貧窮にさすらう繁の描きたる布良の雲海望郷のいろ
今生の魂に描く「海の幸」砂丘に繁の碑はただ黙す
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🔶 武田静江 1998年 橄欖社 歌誌「橄欖」11月号投稿歌より
小題「海の幸」
渇仰の画布に命の悄愴を塗りつぶしけん青木繁は
※悄愴=悲愴 (ひそう) と同意
不治の病いだく筆致の「わだつみのいろこの宮」に鬼気の迫り来
貧困と病魔にさまよう望郷の青春に描く明治のロマン
限りある命の果てに描きたる「海の幸」房州布良の海やま
癒ゆるなき病けざむし満身の画布にさすらう繁の魂魄
渺茫と拡がる海をのぞみ立つ碑のかたえに逐 (お) う薄命の画家
薄幸の繁の碑の前去りがたく茫と拡がる布良のうなばら
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🔶 篠塚礼子 1998年 女人短歌会 歌誌「女人短歌」7月投稿歌
福田たねへの愛の証しか恋の詩うたふがにして描きし「海の幸」
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🔶 篠塚礼子 1998年 橄欖社 歌誌「橄欖」5月投稿歌
小題「布良の海」
夏の日のロマンを顕たす布良の海ここに生まれしかかの「海の幸」
海辺ゆく褐色の肌の群像に描きこまれたる一人の乙女
朦朧と紫の色ちらしめし「黄泉比良坂」の古代幻想
🔶 野田宇太郎の詩 1958年9月 日本文学美術協会発行 「表象 (1) 」より
赤い岩 ( 青木繁に捧ぐ )
野田 宇太郎
赤い岩が群がってゐる。
この眞青な海に‥‥
ざざざざ ざあぶん‥‥
屈退 (※ママ) な歌うたひの海は
うろたへて赤い岩に波をぶつかける。
不協和音の泡が乱れた。
ざあ、ざざざ、ぶり、ざざッ‥‥
赤い岩は動かない。
とがった異端の岩肌が
波に洗はれてはきらめくばかり。
ざざざざ、ざあんぶり‥‥
これはとある海邊での出来事だが
赤い岩の孤獨を知る者はゐない。
この赤い岩を造った神の名は
どもり勝ちな海だけがやつと知つた。
眞青にひろがる海に今日も
赤い孤獨な岩の群が冴えわたつてゐる。
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🔶 生田春月「抒情小曲集」 明治41~42年 雅歌より
わだつみのいろこの宮はさぐるとも君にまされる寶あらめや
海のさち山のさちをもわれすてむしかして君にかなしみを得む
生田春月が、1907(明治40)年発表の青木繁「わだつみのいろこの宮」を、東京府勧業博覧会に出向いて実見したかどうかはわからないが、絵を見て心に留めたのではないだろうかと思わせる歌である。
🔶 川端康成の小説に見る青木絵画登場場面
昭和30年6月5日河出書房刊の川端康成の小説 ( 河出新書 ) 「日も月も」。青木の絵の出て来る場面は、主人公の男女が、ブリヂストン美術館で出会う場面に使われている。
1969年公開で中村登監督により松竹で映画化もされている。松子役は岩下志麻。幸二役は石坂浩二。
なお、「海の幸」が重要文化財指定を受けたのは、1967年6月15日 ( 昭和42.06.15 ) なので、まだ世間に広くは「海の幸」は知られていなかった。青木の絵を取り上げた時期としては早い。川端康成は、現在アーティゾン美術館蔵となっている青木の油彩 ※下の図版「海」(1904年) を、第二次大戦後に一時、所蔵していたほどである。
この絵は、青木と親密に交流した象徴派詩人蒲原有明が初めに持っていた作品である。
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幸二は部屋の中央の腰掛に休んで、《海の幸》や《わだつみのいろこの宮》などの大作をながめた。松子は青木繁の絵を見るのは初めてだった。
「《海の幸》は二十三の絵だそうですよ。美術学校を卒業した時なんですね。そっちの《天平時代》も二十三だそうです。《いろこの宮》が二十六だったと思います」と幸二が言ったので、松子も《天平時代》にある壁面を、しばらく振り向いていたが、また《海の幸》に目をもどした。
《海の幸》の漁夫の一人の目が、松子を見ているように思えたからだ。
真裸の漁夫たちが大鮫をかついで、画面の右から左へ、二列に並んでゆく。
漁夫たちはみな、前を向いているのに、一人の漁夫だけが横目をして、こちらを向いている。ぱっちりと涼しい目で、少女のように美しい顔だが、若者であろう。その一つの顔だけは色白で、細かく描き上げてある。その顔にくらべると、ほかの漁夫たちの顔は、未完成のようだった。
向こう側の列からのぞくように、一人の美しい若者だけがこちらを見ている。この絵の神秘な瞳のような、その若者の目が、松子をみているという印象だった。
「空の色がよごれているでしょう。はじめはまばゆい金の色で、海の青と映り合っていたんだそうですが、ほんとうの金を使っていないから、色が変わってしまったんですね」と、幸二は言った。
「金の色だけでなく、絵が荒れているんでしょうね」
「明治の何年ごろ・・・・・?」
「明治三十七です」
「うちの父が子供のころですね」
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🔶 与謝野鉄幹の短歌 明治43年3月歌集「相聞」より
大名牟遅 ( おおなむち ) 少那彦名のいにしへもすぐれて好 (よ) きは人妬みけり
与謝野鉄幹
優れた才能を妬まれたがゆえに、謀 ( はかりごと ) により、実際は焼けた石だった赤い猪退治に挑んで、大火傷を負った古事記の記述を歌にしたものだ。
鉄幹は、白馬会展覧会には注目し足を運んでいたようで、青木の才能を認めており、主催する雑誌「明星」には「海の幸」の、発表当時の図版も載せていて、今日ではそれは貴重な記録である。
「海の幸」の翌年明治38年の白馬会に出品した青木繁「大穴牟知命」の半完成作品もおそらく見ているはずで、大国主命 ( 大穴牟知命は別名 ) のことが印象にあったのではないだろうか。
なおこのときの白馬会展覧会の作品評が、1905(明治38)年の東京日日新聞に出ているので、青木に触れた部分を掲げておく。
青木繁氏筆「大穴巳貴命(おほあなむちのみこと)」
半製品の上に作家が余りに懲り過ぎたる画なれば一見、不得要領(ふとくようりょう)なれど定めて画以外に何かの理想あるべし
下の図版は、大国主命が焼けた岩で瀕死の火傷を負ったとき、遣わされた二人のヒメを描いた児童読み物の挿絵。青木の「大穴牟知命」と同じ場面である。
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令和5年10月 瀬戸風 凪
setokaze nagi