ワタクシ流☆絵解き館その158 明治のエリート画家たちの教科書。
1896年、明治26年に、黒田清輝が当時唯一の美術専門学校であった東京美術学校の教員に就任するとともに、作品発表の場として組織し主宰した白馬会は、1899年、明治29年春頃からは、新進の画家たち(主に東京美術学校の門下生たち)を教育するための研究所を設けた。この白馬会には、東京美術学校の俊秀たちが集った。青木繁はその一人。
1902年 、明治34年11月1日発行の《白馬會繪畫研究所編》「美術講話」は、その教育用テキストとしてまとめられたものだ。執筆者は黒田清輝、久米桂一郎、岩村透(東京美術学校教授)、安藤仲太郎(肖像画を得意とした洋画家)。
師匠連中が熱意を注いで発行したこのテキストに、白馬会の若い画家たちが受けた影響は、小さくはないだろう。
今回は、上に述べた同書で、誰の、どんな絵画が、教材として掲載されていたのかを振り返る。筆者には、初めて知る画家の名が並ぶ。今日、人気の美術展では出品作に名を見ない画家たちではないだろうか。もちろん、筆者の狭い知識範囲でのことと断っておく。
以下、「美術講話」の掲載図版とともに、現在得られるカラー図版を掲げる。
なお、掲載図のカラー図版の全ては探し当てることはできなかったため、掲げたのは一部のみである。
ファブリアーノもマソリーノも、「美術講話」で初めて知った画家。マサッチオのみ、辛うじて記憶の隅にあった。
こういう群像の場面に、(何だ、来迎図みたいなものか)と、若き画家たちは思ったかどうか。
今日において、印象派の風景画への思い入れはたやすいけれど、教育的色合いの強い宗教画は、一枚をじっくり見るだけで、はや根疲れするのが多くの日本人ではないだろうか。イタリア旅行をした美術好きであっても、そういう感想をしばしば聞く。
しかし、明治時代は、今日よりはるかに、日本においてキリスト教の精神が熱く信奉され、森厳なものとして受け取られた時代だと思う。明治の青年にとって、圧倒的な力と華やかさを持って目に映った西洋文明の宗教的土壌は、モノクロの一枚の図版であっても、深い好奇心を呼びおこすものだっただろう。
メソニエも、「美術講話」で初めて知った画家。こういう激しい動きの中のフォトショット風な捉え方は、日本人画家は好まなかったという気がする。作り物的な印象を残すと、日本人には、品下がるものに感じられるのではないだろうか。白馬会の画家たちの作品に、学んで模倣したような作例がない、
「キリストの洗礼」は、描かれた人物が誰であるか、持ち物で示唆する「アトリビュート」の手法を学ぶ材料として選ばれたのだろうか。
この「アトリビュート」の手法は、日本の絵画にもあって、大国主命の担いだ大きな袋とか、日本武尊の草薙の剣などを例に挙げられはするが、日本人画家たちは、そういう持ち物で人物を示すという方法ではなく、人体のしぐさでわからせようとする方に視点を置いていると思う。
青木繁の絵を例に言えば、「大穴牟知命」の二人の媛の、どちらがキサガイヒメか、ウムガイヒメかは、何も持っていない二人の様子からは判断できないが、乳汁というキーワードによって、二人のしぐさに違い(つまり、乳房をつかむ姿)を与え、そこでわからせようとしている。青木はキャンバスの裏に、人物の位置に名を書いて示しているという。
「アトリビュート」に注意しながら西洋の神話画、宗教画を見るのはとても興味深く楽しいが、一方、絵の見方としては筆者は疲れる。
日本の絵画の多くは、全体の雰囲気の中に、人物が誰であるか浮かび上がって来るように描かれていて、細部に目を凝らす見方をしなくていい。
または誰とわかる必要もない、無名の人物がぞろぞろ出ている北斎の絵などは、いくら見ても疲れるという感じがない。
テキストとして考えてみると、青木の「旧約聖書物語 紅海のモーゼ」(下の図版)の人物造形においては、直接的とは言えないが、この図版による残像が、尾を引いているとも見えてくる。
ギョーメも、「美術講話」で初めて知った画家。年譜を見ると、1868年、「サハラ」がサロンで高い評価を受けていて、その後アルジェリアの風景画が雑誌に掲載され人気を博しているので、当時の流行絵画の参考例として、「美術講話」に選ばれたのだろうか。
ギルランダイオも、「美術講話」で初めて知った画家。ルネサンスのイタリアの画家だ。
聖母マリアにしても、イエスキリストにしても、その生誕図に相当する題材は、わが国にはない。こういう題材を日本人の生活文化の何に置き換えて絵画表現とするか、各画家たちは困惑しただろう。
横並びの人物像、柱の直線による額縁効果という画面構成の視点から見ると、青木繁の「光明皇后」が浮かぶ。「光明皇后」は、柱で区切られた中に、女官、僧侶らが密に寄り添ってリズムを作っている。
生誕図に多く見られる人々が寄り集っている構成を咀嚼した作例と見ていいのかもしれない。
下の絵は、シェイクスピアの恋の物語のクライマックス場面を絵画化した作品。物語の知識がないとわからない絵だ。
上に掲げた絵のように、西洋絵画にあっては、シェイクスピアの作品場面が主要な絵画テーマとなっていることに比べて、明治時代のわが国の洋画においては、明治以降に書かれた、いわゆる近代小説の男女の物語の一場面を、劇的に表現する試みは見られない。
近代小説(ほとんどは通俗小説で―情痴小説とも揶揄された)の場面の絵画化は、挿絵・口絵がその座を担っていて、油彩画においては展覧会等の出品作の題材にはなり得ていなかった。
そんな状況の中で、青木の「大穴牟知命」と「わだつみのいろこの宮」は、「古事記」を壮大な浪漫の物語と捉え、神話の場面絵の形式を用いて、男神と媛(ひめ)の間の情熱を表現しようとする試みであったと言える。
また、この絵の画面上部の切り取り処理は、「わだつみのいろこの宮」にも見られることに気づく。
「美術講話」の中の図版が、その一葉をもって白馬会の若い画家たちに、決定的な影響を持ったとはもちろん言えないが、それでもなお、自己の体験を顧みれば、感性豊かな青春期は、ほんの小さな挿絵程度の図版であっても、感性の羅針が激しく反応することが稀にある、と筆者は思う。
若い画家たちにとって「美術講話」は、決して退屈な教科書に終わるものではなかった、という気がしている。
令和4年7月 瀬戸風 凪
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