ワタクシ流☆絵解き館その186 寂しき友情―高島宇朗の青木繁追想。
青木繁の友人で、昭和29年に77歳で亡くなった高島宇朗の青木追慕の詩・文章を読む続篇。
青木を取り巻いていた友人たちの中で、宇朗は際立って特異な存在だった。世から超然とした禅僧人生において、「わが心の内のみなる青木繁」を、生涯追慕したと言えるだろう。
宇朗の詩・文から、所蔵している絵を終生公開しなかった ( 多くを生涯私蔵していた ) 理由も感じ取ってみたい。
青木の友人たちの計画した遺作展には協力しなかった宇朗だが、昭和16年8月発行の「みづゑ442号」において、「青木繁畫 無背窟蔵品附説」とした記事を発表し、所蔵している素描・油彩類を掲載した。
その一部を取り上げる。
文中に出て来る素描「信州牧野付近村」を、「荷馬車を挽きて家路に向かう晩帰図である」と宇朗は解説している。
下の詩「貧なるが故に閒なり」は、青木の絵を見つめての感懐である。
閒(かん)とは、暇であること、何もしないでいること、である。この詩の中に出て来る、室内に掛けた青木繁の絵が何なのかは不明だ。
遠山の紫靉にけむる月かげはるかな風景画…。鉛筆だけでなく、着色された絵のようだ。昭和12年作の詩だから、やはりその絵は長い時間大事に所蔵し続けていた絵だとわかる。
そして時に、どれかの作品を出してきては室内に飾って眺めていたということを伝えているだろう。
宇朗が美術雑誌「みづゑ442号」に所蔵品として公開した絵の中から、あえて雰囲気の近いものを探せば、掲載図版に素描「晩照」が見られる。
高島家の千坪余はある別荘であり(―高島家は大地主、富家であった)、明治四十年当時宇朗が居住していた林泉共鳴墟(宇朗による命名)の近くの眺めで、青木がこの絵を描いたときのことを、宇朗が上記の雑誌に書いている。
(下にその抜粋を引用し示す)
青木はこの時期、父危篤の知らせを受け久留米に帰郷していた。
渾身の作「わだつみのいろこの宮」が画壇的に成功せず、絵の売れる見込みもなく、根本原因は家庭を築くために、挿絵なり何なり、他の貧乏絵描きたち誰もがやっている小銭稼ぎの副業には目もくれない青木の芸術家気質にあると思うが、かつては彼に輝かしい傑作群をもたらした女神とも言える愛人福田たねと、経済的に見込みが立たないことの諍いから衝突し、たねとその一児を栃木の福田家に置き捨てにしての帰省。失意落魄の境遇にあった。
宇朗は結婚後東京から久留米に帰り、この別荘に住んでいた。青木は宇朗の好意に甘え、この屋敷にほぼ居候と言えるような状況でいたようである。
友の眼から見たそういう状況の青木の鬱情と、その記憶を時が経ても消し去れない寂寥を、下の文中に読み取ることができる。
上の絵「晩照」は色鉛筆で着色された作品だ。「紫靉にけむる月かげ」の色彩であるかもしれない。愛蔵して来たこの絵を眺めながら、宇朗が「貧なるが故に閒なり」の詩を書いたと思いなすのも、今となっては、両人の残したものを楽しむ術としていいだろう。
事跡から追ってゆけば、高島宇朗は高島家の財力を資として、東京時代の青木繁に金を貸し (おそらく返してもらう気もなく)、故郷久留米に滞在時には、居候を許し、経済苦に喘いだ青木を救う恩人であったのだが、それをなさしめたのは、青木が友として交わるだけで、宇朗の心中に渦巻く芸術至上精神や詩情を燃え立たせてくれるかけがえのない存在と感じられていたからだろう。
固くつながり合う要素が、二人の性格の中にあったと思う。しかし、違う角度から二人を眺めると、宇朗は詩に、青木は絵画に、確かな生活の糧を得る途を得られなかった、不器用な不成功者 ( あえて言えば、受け入れてくれない世への拗(す)ね者 ) として、傷をなめ合った仲とも言える。
青木への愛に満ちた優れた伝記があり、この二人のぶつかり合いを、小説ふうだが、臨場感を持って描いている。
渡邉洋「底鳴る潮―青木繁の生涯」(昭和63年筑摩書房刊)。一部を紹介する。
二人して酔えば、こういう言い合いもあったことだろう。青木晩年の宇朗との訣別は、尾を引いたのか、久留米を飛び出したのちの無惨な彷徨から、福岡の病院で亡くなるまでの間、宇朗の影は青木の傍らにはない。
しかし宇朗の心中から、青木が消えることがなかったのは、素描はもとより零墨断簡まで生涯持ち続けた行動が示しているだろう。
令和4年10月 瀬戸風 凪