見出し画像

ワタクシ流☆絵解き館その264・青木繁が描いた《わが運命の女》

⊡ 福田たねを描いた知られていない絵「惜春」

青木繁の全画業を眺めて見ると、福田たねとの恋愛は、情熱の泉を掘り当て、美的なインスピレーションを触発し、そして現実の絵画モデルとしての位置を占めた、というまさに美神が彼に舞い降りて来たと形容してもいいほどのものだった。
文学での高村光太郎・智恵子の、朽ちない関係に匹敵するだろう。
青木繁が、福田たねをモデルに、あるいは原型として描いた女性像は、評者によってその広がりに差はあるが、モデルであることが明快な、
「女の顔」( 図版① ) を筆頭に、
「海の幸」
「わだつみのいろこの宮」
「大穴牟知命」
などを上げるのが、通例である。これらの絵に共通して見える特徴は、

■ ワタクシ流☆絵解き館 その157 青木繁の作品に見る―その肉感的な口唇よ!( ※記事下のタグ「明治時代の絵」から入れます )  

で述べているので、そちらもぜひ読んでほしい。
しかし青木繁は、現実に存在する女性の肖像として、「女の顔」以外にも、福田たねであろうと推定されている肖像を残している。

先ずは、そのうちの一枚「惜春」を掲げる。
この絵が紹介されている小島烏水の『堰松の匂ひ・山岳随筆』( 昭和13年刊 )には、青木の若き日からの友人で、青木が福田たねといた日々にも二人の近くにいた正宗得三郎から、この絵の画布の押さえの板に、「惜春。亡青木繁君遺作」と鑑定書きしてもらったと記述されている。よってこの絵の題は正宗が命名したことになる。

さらに、出版時点で著者がたねに調べたこととして、「わだつみのいろこの宮」を描いていた頃の作品で、モデルは自分であり、画布は自分が張ったとたねが述べたと書いている。
顔の角度から浮かんで来るのは、1903年制作の自画像 ( 下の図版④「男の顔」) 。対応させる意図があったようにも見えて来る。
なお小島烏水は 随筆家、絵画収集家 ( 現在収集作品の多くは横浜美術館に入っている ) で、この絵の当時の所蔵者である。

「わだつみのいろこの宮」について。
この絵は、青木がたねの郷里でともに暮らしていたときの制作で、たねの証言から、豊玉姫の顔は、たねをモデルにしたとされている。
当時のたねの写真は現在の処見つかっていないようなので、「惜春」「わだつみのいろこの宮」の豊玉姫、「女の顔」それぞれが、どれほど当時のたねのリアルな顔に近いのかはわからない。

青木の埋もれている絵を発掘するよりは、たねの写真探しの方が発見の可能性は高いと思うが、研究は進んでいないようだ。
三作品に共通の鼻梁の長い感じが、かなり後年ではあるが、たねと青木の一子福田蘭堂と並んで撮られた写真を見ると感じられず、いくらかデフォルメされているのではないかという気がする。
しかし下に掲げた図版②の、たねが描いた和服姿の自画像を見ると、青木の描いた「惜春」と似通う感じはある。福田たねの自画像と青木繁の「惜春」「女の顔」の三作品を並列した図を掲げよう。

青木繁「惜春」明治40 (1907) 年頃の制作か 
小島烏水『堰松の匂ひ・山岳随筆』( 昭和13年刊 ) 掲載図版より
青木繁 1907年「わだつみのいろこの宮」部分 アーティゾン美術館蔵 豊玉姫の横顔
図版① 青木繁 明治39 (1906) 年「女の顔」京都国立近代美術館蔵
図版② 明治37(1904) 年 福田たね「自画像」 館山市「青木繁/海の幸記念館」展示より
図版③  福田たねの自画像(左)と青木繁の「惜春」(中央)「女の顔」(右) を並べて比較
図版④ 1903年 青木繁「男の顔」大原美術館蔵
「惜春」と並べると、同じコンセプトの一対の絵のようだ

⊡ 青木繁、福田たねの合作に見るたねの肖像

さらにもう一枚、明治38年の太平洋画会第4回展出品で、出品時は福田たねの名で出品されたが、その後の研究で、青木繁・福田たねの合作とされている「ゆく春」という絵も、たねがモデルである。
なお画中の女性は、花を髪にかざし、背景にも花を散らせている。これは、青木繁のアイデアだったのかもしれない。

1906年、明治39年制作の木炭エスキースのみが残る女性像「椿の花をもつ女」も椿を持ち、背後も椿が囲む様子で構想されているのが、目に止まる。
また、明治後半のこの時代は、図版② 明治37(1904) 年 福田たね「自画像」に見るように、まだ女性は日本髪を結っていて、それを解いて長く垂らしているのは、極めて身近にいる親しい女性の姿と考えられ、「椿の花をもつ女」も、福田たねをモデルに構想した絵と推測できるだろう。

明治38年太平洋画会第4回展出品  青木繁・福田たね合作「ゆく春」ひろしま美術館蔵
 
青木繁 1906年「椿の花をもつ女」 画布に木炭 
生誕90年青木繁展で公開   穴が開き、かなり傷んでいる

たねが描いたポンチ絵で、二人が知り合った頃の画塾不同舎の雰囲気を描いたのが下の図版。たねは、右手を上げた手前の女性。  
絵には出ていないが、青木繁は当時東京美術学校に通う一方、画塾不同舎に出入りしていて、この雰囲気の中に青木繁もいた。たねは明治36年5月入塾 18歳で、青木繁より3歳年下だった。明治37年正月には、不同舎主宰の小山正太郎もたねと青木繁の仲を知るようになる。

福田たね筆 (サインはたね子) 明治36~37年頃の夏の追憶 不同舎アトリエの一隅 

青木繁は陰に陽に、愛しい人福田たねを描いたのに対し、たねの方は青木を描いていない。いや描いたかもしれないが残していない。詮ない話だが、たねから見た青木の姿も見たかったものだ。

⊡「海の幸」「女の顔」の並列展示から受けた強い印象

青木繁と福田たねの若き日の恋は、名作を生んだ背景として、永く繰り返し語られてゆくだろう。
2022年、青木繁の全画業展である「ふたつの旅 青木繁✕坂本繁二郎」展  ( 久留米市立美術館 ) において「海の幸」実物を、20分以上は眺めてみたが、上に述べた図式を頭の中から外し、違う意識でその特異な表情を見つめるにはしばらく時間を要した。青木の代表作「海の幸」を見るとき、いまではすっかり定説となっているこちら向きの白面の顔=福田たね、という図式は、この絵の核心のように見る者を呪縛する。

展覧会場では、「女の顔」が「海の幸」のすぐ隣にあった。この二点のみを ( 制作年は「女の顔」の方が後年 ) ひとつの展示壁に並べた情景を少し遠めに見ながら、「海の幸」の白面の顔が、定説どうり、福田たねからのインスピレーションだとしたら、「海の幸」以降の青木の神話題材の画業は、つねに神話世界の翻案の構想と、福田たねという勝気な美しい人の面影が絡み合って脳裏に渦巻いていた結果であり、「女の顔」は、意図せぬながら、ふとその混沌から抜け出そうとした青木の衝動が描かせた絵なのかもしれない、と感じていた。
                                                  令和6年8月          瀬戸風 凪
                                                                                           setokaze nagi



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?