詩の編み目ほどき⑤ 三好達治「昼の月」
今回は、三好達治34歳の詩集、昭和9年7月刊行『閒花集』より、次の詩1934(昭和9)年4月「世紀 創刊号」初出の「晝 ( ひる ) の月」を取り上げる。旧漢字体、旧かな使い表記。
晝 ( ひる ) の月 三好達治
―― この書物を閉ぢて 私はそれを膝に置く
人生 既に半ばを讀み了( おわ ) つたこの書物に就て ……私は指を組む
枯木立の間 蕭條と風の吹くところ 行手に浮んだ晝の月 ああ
あの橇 (そり) に乘つて 私の殘りの日よ 單純の道を行かう 父の許へ
🟣「父の許へ」の、父とは
はっと目に止まるのは、詩の最後の行の「父の許へ」。
これは、母恋いの詩人とも呼ばれる三好達治の詩句として、たいへん意外な一言に見える。達治三十代半ば、壮年のただ中にあって、自分を受け入れてくれる存在として、遠い先に父がいると信じる真情を吐露した言辞と受け取るしかないだろう。達治の父は、この詩集発刊と同年、昭和9年10月に没している。
達治は、小説と称した一文『暮春記』( 昭和11年5月、雑誌「改造」発表 ) で、父の面影を題材に、6歳の時養子に出されたいきさつを、父と子の会話のやりとりとして描いている。長いが、その部分を抜き出す。
おそらく演出的な場面で、『暮春記』一編を、小説と称したのが頷けるのだが、伝記上はこのとおりで、明治39年、6歳の達治は舞鶴のSさん、佐谷家へ居を移す。
しかし達治は長男である。他家へ養子に出る必然的理由はない。旧民法下、長子家督相続制度の社会であることを思えばなおさら、不可解なことである。実際、養子縁組は、籍を移すことはできなかった。
この養子一件の事情として、ごく一般的に考え得ることは、父の目論見もない、常識外れの凝りようで傾いていた家計 ( 印刷業 ) を原因とする口減らしの意味があったということだろう。しかし、その年のうちにこの関係は解消され、達治は兵庫県有馬郡三田町の祖母のもとへ引き取られた。
達治の父は、大正10年には家業を破産させ、家族を捨てて出奔した。本当のところは、父について「一寸變つた意見である」というような軽い感想しか達治になかったとはとても思えない。
上の記述に見られるいいかげんな父を、達治は ( 自分は一度は捨てられた ) と思い、憎んでいたと想像してみるのだが、不思議にも、そんな感じはこの『暮春記』の記述からはうかがえない。
確かに憎悪の思いがあれば、父については全く沈黙するか、少なくとも『暮春記』のような淡々とした描写で、この一件については語らないだろうとは言えるだろう。
🟣『暮春記』を書いた理由、そして隠された思い
『暮春記』は、父が亡くなって、2年足らずのうちに書かれている。哀れな人生だった父を、書き物の上で救済したい思いがあったと私には読み取れる。しかし、達治は雑誌「改造」にこの一文を発表したあと、自分の著作に収めることを生涯しなかった。友人にも、この作を否定する言を書簡で告げている。
再録を許さず封印した理由を思うとき、真実を隠したから、あるいは曲げたものが書かれているからと思わざるを得ない。もう少し違った書きようがあったという気持ち、あるいは、養子行きの一件は、小説仕立てとはいえ題材にすべきではなかった、という悔いがあったとさえ思う。
創作の衝動と引き換えに、創作の題材にするのはためらっていた部分を、結局は語ってしまったのかもしれないが、それが真実であるなら、いったん世に出した作品がどう読み取られてもいい覚悟があったはずなのだが。
『暮春記』で触れていない重要な点は、養子行きで達治の心は屈折を味わったということだと私は思う。『暮春記』執筆は、養子行きとなったいきさつを、父と子それぞれの人格の奇妙さに発するものとして、いわば鋳型にはめこみ、心のうちの陰影を取り除くことで、ケリをつけている。
しかし、6歳の長男を親戚でもない他家へ養子に出す理由が、達治が述べているような、子の意志を父が掬い上げてといった事情であるとは納得しがたい。そんなことが重大な決定の理由にはならないだろう、としか思えない。
父の思いを善意で想像してみるに、達治の才能を感じ取り、自分の手元に置くより養子に出す方が、達治のためになるという思惑があったのかもしれない。そして、父は自分の破綻、滅びを内心恐れていたのだろうかとさえ思う。
達治は、昭和18年の戦時下、43歳で離婚し、若い日に一度は求婚し、以後長年の思い人萩原アイと福井県三国で暮らす。達治のこの出奔と言える身の投げ出し方、のめりこんでゆく性情は、大正10年に家業を破産させ、家を捨てた時の父の姿にどうしても重なって見えて来る。
視点を変えて語る。
なぜ詩を書くのか、何が詩人として生きさせるのか、詩人はつねにその問いから離れられない。そして、繕いの施せない傷心が、表現行為の動機に結び付いていることに、詩人は頷かざるを得ないだろう。
『暮春記』執筆は、養子行きの一件での傷心を、悪く言えば内的衝動の結果であると糊塗することによって、自ら慰撫せずにはいられなかった営みであったと思う。
詩人には、幼少期の経験が、後年に始まる創作の核心になると思う。幼少期に、父母欠けることなく、その上さらに優しい祖父母や兄弟に恵まれ、その時代の庶民の取り得る穏やかな暮らしにあって、坩堝の中の発熱物のような激烈な思念に洗われることなく育った者は、先ず間違いなく詩人にはならない。
もしそのような生い立ちの者が創作として詩を選び、書き続けるエネルギーを保ち続けようとすれば、叛逆のように自虐を題材とした立ち位置をとることになり、そしてその観念性ゆえに創作は早々に行き詰まるだろう。
『暮春記』が、どれほど真実を吐露しているのか、どれほどの嘘を織り込んでいるのを知る手がかりはない。しかし、『暮春記』からわかるのは、達治が、幼くして自らの言葉で実家を離れる原因を作ったと感じとるような、一所不在の魂、安逸に浸り切れない性を持って生れついた自覚が、自分を衝き動かし、人生の行路を迷い多きものにしている戸惑いである。
私は、養子行きの件が残したその傷心ゆえに、この件は、達治が後年詩人として生きる道への出発点となった決定的な出来事であったと考える。
🟣「人生―讀み了( おわ ) つたこの書物」の始まりの紫陽花いろ。
「晝の月」では、《行手に浮んだ晝の月/ああ/あの橇 (そり) に乘つて》と、昼の空の月を橇の比喩でうたっている。その詩句に、この詩を書いた時点ではまだ存命ながら、すでに病み衰えていた父の魂を重ね合わせているはずだ。父の魂に導かれて、「父の許へ」ゆこうと言うのだ。
このとき、すでに達治の頭脳の中には、『暮春記』を書かずにはいられない
衝動が湧いていたと思う。世間的見方からすれば、全く失格の、責任を果たさない父である。それなのに、その父の不徳の生き方を、擁護したとも感じられるのが『暮春記』である。
「晝の月」の《單純の道を行かう》とは、含んだ意に広い解釈を許す詩句である。そのひとつの解釈として、短絡的な見方ながら、俯瞰的な眼で見れば、後年、昭和18年の萩原アイとの同棲にまで尾を引いている人生指針にも見えて来る。己の心底から噴き上げて来る情念に生きることを肯う。
《單純の道》は、達治のような生来の、天成の詩人には、危な過ぎる自己暗示であるが。
そして「晝の月」の詩句には、処女詩集『測量船』所収の「乳母車」に響き合う詩句があるのに一読で気づく。もちろん、「晝の月」の方があとに書かれた。
乳母車 三好達治
母よー
淡くかなしきもののふるなり
紫陽花いろのもののふるなり
はてしなき並樹のかげを
そうそうと風のふくなり
時はたそがれ
母よ 私の乳母車を押せ
泣きぬれる夕陽にむかつて
轔々と私の乳母車を押せ
赤い総ある天鵞絨の帽子を
つめたき額にかむらせよ
旅いそぐ鳥の列にも
季節は空を渡るなり
淡くかなしきもののふる
紫陽花いろのもののふる道
母よ 私は知つてゐる
この道は遠く遠くはてしない道
相響く詩句を並べる。
「乳母車」◆《はてしなき並樹のかげを/そうそうと風のふくなり》はほぼ似た情景のままに
「晝の月」◆《枯木立の間/蕭條と風の吹くところ》としてうたわれ
「乳母車」◆《泣きぬれる夕陽》は時間を遡り
「晝の月」◆《行手に浮んだ晝の月》と形を変えたが
「乳母車」◆《遠く遠くはてしない道》だった道のりは、すでに
「晝の月」◆《私の殘りの日よ》と、嘆息するときとなった
これを作風と見て、特に気に留めることもない三好達治読者は多いだろう。だが私には、この詩境は、晩年に至るまで達治が繰り返しうたった同じうた、だと感じられる。
令和5年7月 瀬戸風 凪
setokaze nagi