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ワタクシ流☆絵解き館その266― 青木繁、ひそかに慕った(?)女性を描く。

青木繁の大飛躍の年になった1904年(明治37年)に、青木繁は東京美術学校を卒業したが、その頃に描き、理解者であり支援者であった高島宇朗に渡った「おもかげ」という、あまり取り上げられることのない一枚の素描がある。手帖ほどの小さなサイズで、下に掲げた絵である。

青木繁 「おもかげ」 1904年頃 色鉛筆・鉛筆 15.5×13.5cm 高島宇朗旧蔵
1904年(明治37年)夏に「海の幸」を描いた

「おもかげ」のモデルは、明治36年東京美術学校入学で、青木と同時期に学んでいたマリー・イーストレーキ。( 父がアメリカ人、母が日本人 )
卒業後は、青木と同じく黒田清輝主催の白馬会に出品したが、画家としての活動は、ごく短い期間に終わった。1914年には日本に帰化している。
この素描に描かれたのが、マリー・イーストレーキであると伝えたのは、この絵を受け取った青木の友人高島宇朗である。青木が高島宇朗に、在学中美校生たちに人気のあった女性を思い描いた絵だと言ったという。

彼女の美術学校卒業制作の自画像が下の絵である。当時の東京美術学校卒業制作 ( 自画像の提出が義務であった ) を見ると、どの生徒も、自分の顔に似せることに忠実であるのが写真と比べてみるとわかるから、マリー・イーストレーキの自画像からも、こういう顔であったという答えは引き出せるだろう。

マリー・イーストレーキ 卒業制作「自画像」  明治40年 東京藝術大学美術館蔵

さらに下の挿絵も、マリー・イーストレーキが講道館で柔道にいそしんでいたことを伝える雑誌「婦人画報」の記事に添えられたものである。彼女は日本語は堪能で、のちに父と同じく英語教師となる。文武両道の女性として大いに人目を引いたということだ。

「婦人画報」明治38年 8月号より

また、下の集合写真からは、当時の東京美術学校の生徒で、マリー・イーストレーキが紅一点であったことが一目でわかる。

明治40年 東京美術学校卒業記念写真

下の写真は、青木が「おもかげ」を描いた頃、1904年 ( 明治37年 ) 撮影の家族写真に写るマリー ( 右上 )。
 隣は母親のナオミ 右下の男性は父親ではない モレル氏。

イーストレーキ・ナヲミ著 昭11年 信正社「憶ひ出の博言博士」より引用

マリーの母親のイーストレーキ・ナヲミ ( 旧姓太田ナオミ ) が、美術学校時代のマリーについてこう書いている。
( イーストレーキ・ナヲミ著 昭11年 信正社『憶ひ出の博言博士』) 

女を美術学校に入れる ー といふことは、美校始つて以来、そんなためしがなかつたので、大分問題になつたのですが、アメリカ人大使の口利きで、やつと叶ひ、娘はカンバスを抱いて、男の美校生たちと交つて登校したものでした。
これがまたゑらい評判で、當時、若い女で洋畫を習ふといふことさへも、珍しいことなのに、男ばかりの美校に、たつた女の生徒といふので、娘は一時話題の中心になつたものでした。
いまでもせうでせうが、そのころの美校生と来たら、また無邪気なもので、娘を眞中にして、わあわあ騒いでゐても、罪のない馬鹿騒ぎ以外の、何物でもなかつたのです。
娘はとても色が黒くて、髪なんかもひつつめにしていましたし、白粉 ( おしろい ) の気なんぞ微塵もなく、全く男みたいな子でしたし、それが却つて、美校生のバンカラ風とウマがあったのでせう。
向こうも向こうで、「まつくろけのタドン娘」だの「黒すぎるわれらの女王」だのと、そんな調子で話しかけるので、浮いた噂などは、これつぽつちもなかつたものです。娘が俥 ( くるま=人力車 ) で通学する途中で、これらのバンカラ美校生の一團と会うと、みんながワイワイと俥夫を押しのけて、みずから梶棒を取つて器用な走り方をするのもゐたりして、みんなそれが気のいゝ連中だつたのです。

イーストレーキ・ナヲミ著 昭11年 信正社『憶ひ出の博言博士』より

母親から見た娘のありのままの姿が語られている。
しかし、青木繁が描いた素描の「おもかげ」を見返すと、引っ詰め髪ではなく肩まで垂らしているし、色はむしろ肌白に見えて、その絵から受ける印象は、母親が語る実像とは大いに異なると言えるだろう。本当にマリー・イーストレーキがモデルなのかとも思えて来る。
ただし、上の母親といる写真をしげしげと見つめていると、目のくりっとしたところや丸顔の感じなどから、青木の描いた「おもかげ」がぼんやり重なって浮かんで来る。

この当時青木が熱愛した福田たねの若い日の写真を見ると、青木が「海の幸」の正面向きの白面の顔に、たねの面影を重ねたという、今日通説になっている解釈に一応はうなずくわけだが、そこから類推すれば、素描「おもかげ」の顔も、青木の好みに合致していると言えるし、彼女 ( マリー・イーストレーキ ) の快活で物怖じしない性格もあいまって、青木は好感を抱いたのだろう。
ただ、「おもかげ」のモデルがマリー・イーストレーキだとすれば、多分に理想像をイメージして、青木の自在なふくらみがほどこされているとは言えるだろう。

美術史家の中村義一先生はその著作『近代日本美術の側面 : 明治洋画とイギリス美術』( 造形社刊 1976年9月 ) において、この素描 ( 「あこがれ」) の顔が、1904年に青木が描いた「天平時代」 ( アーティゾン美術館蔵 ) の人物に似ていると述べている。図版での説明がないのだが、中村義一先生の指摘は、横顔やこちらを向いた顔などだろうか。( 下の挿図 )
私には、さほど類似点があるとは思えないのだが、中村義一先生もこの稿の中で、素描「おもかげ」は、青木好みの顔にアレンジしていることを言い添えている。

「天平時代] 全体 1904年 青木繁 ( アーティゾン美術館蔵 )
「天平時代] 部分

下の絵は、マリー・イーストレーキの白馬会第13回展の出品作である。どことなく西洋人的な雰囲気があり、マリー自身の横顔ではないかと思われる。
なお、青木が「海の幸」を出した白馬会第9回展に、マリー・イーストレーキも出品している。つまり、マリー・イーストレーキは発表時点での「海の幸」を見ていることになる。
マリー・イーストレーキが青木という人物や青木の作品をどう感じていたかは、残る記録がない。

「中央新聞」1910年(明治43)5月26日掲載

マリー・イーストレーキを当時、周囲の人がどう見ていたかは、下に掲げた文章からうかがわれる。美しい人だったという一致した印象が語られている。

出品39 マリー・イーストレーキ「百合の花」
▲非馬耶「この花よりは、ご婦人の方が美しいと見物の若い衆が云ってゐた」

1905年雑誌「天鼓」の記事 白馬会第十回展 下馬評より

当時 ( 東京美術 ) 美校にはたった一人、女生徒がいた。父親が英国人 ( ※実際はアメリカ人 ) で辞書などを作っていた学者、母親が日本人の混血で、たいへんな美人だった。名を、マリー・イーストレーキといった。
当時の美術学校は、女生徒は入学できなかったが、黒田清輝先生が外国人だから許可してもいいだろうということだった。彼女を取り巻いて教室は賑わったものだ。

藤田嗣治 著1968年 ノーベル書房『猫と女とモンパルナス』に収まる 
長谷川昇「強烈な色彩の男」より一部を引用

ここで、私は明治後期の、文芸を愛好する青年たちの胸中に等しくあったダンテ最愛の女性、ベアトリーチェを想起する。
そのことについては以前、「ワタクシ流☆絵解き館その133  ダンテの恋人ベアトリーチェを胸中に―青木繁《暁の祈り》と《温泉》」と題した記事を書いた。その要点を再掲する。

青木のこの両作品 (《暁の祈り》と《温泉》) において、イメージの核をなしている女性とは、詩人ダンテの永遠の恋人、ベアトリーチェではないだろうか。
ベアトリーチェは、名作古典、ダンテの『神曲』に登場する女性だ。24歳で夭折した実在の人物で、ダンテは幼少のころ彼女と出会い深く心を捉えられるが、結ばれることはなかった。しかしダンテの彼女への思いは断ちがたく、彼女の死後も続く恋の煩悶と、彼女の神聖性を謳った詩文『新生』を著している。

立命館大学文学部非常勤講師の星野倫氏の論文『天国と政治 日本におけるダンテ受容の一側面』を読むと、明治26年(1893)、北村透谷、島崎藤村らが発刊したロマン主義の産物たる『文學界』誌上で、上田敏、戸川秋骨らがダンテ論を発表し、それらが、ロマン主義的恋愛詩人としてのダンテを広く認識させることになり、ダンテが詩篇で讃え続けた最愛の女性、ベアトリーチェはいわば「永遠の女性」(西洋のロマン主義で使われる呼び名)として明治の青年たちの胸に焼き付けられ、西洋文明へのあこがれと相俟って、プラトニックラブの熱い炎を燃え立たせたであろうと教えられる。

瀬戸風 凪/ワタクシ流☆絵解き館その133  
「ダンテの恋人ベアトリーチェを胸中に―青木繁《暁の祈り》と《温泉》」より
左・青木繁「温泉」油彩 1910年 個人蔵     右・ 青木繁「暁の祈り」油彩 1907年 個人蔵
上挿図に、「おもかげ」を重ねた 原画はアレンジしていない

そして、同じくダンテの詩篇を読み込み。ダンテの恋人ベアトリーチェ像、すなわち至高の美の女神を胸に宿していた青年の一人が、高島宇朗であったと思う。高島は故人青木を追想して、青木の絵「おもかげ」に詩を添えた。下に掲げた詩である。
この詩からは、むしろ高島宇朗の方に濃厚に、明治の青年が抱いた見果てぬ異性への夢想が深かったように感じられる。

  白一華     高島 宇朗

  世に遠き
  野中の
  森の
  古家に

  二人居て
  かたりあかした
  蒼闇の
  夜の
  おもひで

  いまは
  はや
  逝 ( ゆ ) いて在らざる
  われの友
  青木繁が
  紅き血の

  脉脉 ( みゃくみゃく ) と
  蕾 ( つぼみ ) に活きて
  開き出で

  眼前に
  白純 ( びゃくじゅん ) を笑む
  一華 ( ひとつばな ) なり

「白純 ( びゃくじゅん ) 」という言葉が目に残る。仏教の用語で、調べてみるとこのような意味だ。僧侶であった宇朗独特の言葉遣いである。

白純は、全てを爰は種子生現行 ( 潜在的な根本心にある種子から顕在的な心がうまれることの意 ) の法相 ( 万象のありさまの意 ) を自ら一切の現行の法相に通じてみるこころなり

明26年.護法館出版 秀存 述, 松本恵秀 訂 「唯識三類境選要講義」より

また高島宇朗は、「おもかげ」について、難解な文章ながらこうも書いている。

いはば、これは処女の、白の美であり、彼は彼女の紫の美であろうし、これの純、彼の醇、ともに作家女観の仮託表現ながら、且つ又、ともに高き充分の品位を具えつつ、( 中略 ) 視ていれば、次ぎ次ぎと意味が出て来る。生と、熟と、素源と、流布と。蕾 ( つぼみ ) と花と。
『おもかげ』は、それ、木賊 ( とくさ )みがき ( とくさは、砥ぐ草が語源の研磨材 )、椋の葉ずり、いぼた布巾のつや拭き ( 水蝋蝋 〈 いぼたろう 〉  の液などをしみ込ませた研磨用の布巾の意 ) の、仕上げ以前、生息蘊粋 ( 存在を構成する要素の最も大事なところの意 )、理智淳澄 ( 澄んだ理性と知恵の意 ) に於ける動光である」

高島宇朗「青木繁無背窟蔵品附説」より

意を正確に読み取るのは至難だが、青木芸術の萌芽がこの素描に熟しているという見方だろう。肝胆相照らす友、青木繁を失って幾年、なおさら深まる高島宇朗の追慕の念が極まった一文である。

                                    令和6年11月                     瀬戸風  凪
                                                                                          setokaze nagi


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