ワタクシ流☆絵解き館その189 青木繁、清貧歌人との放浪―安江不空②
以前の記事で、のちのちまで青木を追慕した詩を書き、終生青木作品を持ち続けた郷友で僧侶詩人の高島宇朗のことを書いたが、その高島と青木の仲ほどには長くもなく親密とも言えない歌人安江不空であるのに、短い歳月ながら、双方二十代の若き日々に、乞食行脚(こつじきあんぎゃ)という恥も見栄も掻き捨てた裸の精神的交わりを持ったがゆえに生じた、志を同じくする者としての、消えやらぬ熱い思いを生涯持ち続けたことを、不空の青木を詠んだ歌からはうかがい知れる。
安江不空の事例からつくづく思うのは、礼を失したと受け取られても仕方ない言辞や、他人の感情に無頓着な態度から、画壇の主流派である和田英作らの指導層やそれに連なる画家たち、故郷久留米の当時の人々には、厄介者として、遠ざけられ冷視された青木繁であったが、
郷友の高島宇郎、画家坂本繁二郎、森田恒友や、
作品を収集し今日に伝えた最大の功労者梅野満雄(教師・研究者)や、
そしてこの安江不空など、
生活の援助をしたり、彼の絵を後世に残そうと渾身の貢献をした文人が存在するところに、表向きの彼しか見えていない者には測りえない人間的魅力があったと知る。
彼らがその態度を持たなければ、今日の青木の評価名声はないどころか、作品すら、どこにいったかわからない幻の画家となっていたのは間違いない。
大正7年、青木の死から7年後、不空は明治40年の乞食行脚を追想する連作として、「亡き友青木繁と僧形して水戸のあたりを行脚せしことを」と詞書を付して「乞食篇(こつじきへん)」の歌を詠んでいる。
それを抜粋して下に示す。読みやすいように同歌を漢字表記にして併記した。
上の歌からは、あやしげな他所者として見られたり、ときには喉を潤す井戸水をもらおうとしても、罵られて追い払われることもあったり、ひどい宿に泊まらざるを得ない貧乏旅をしているのがわかる。
また、色街の葬儀の場に居合わせて、そこで男泣きに泣いている者を見たことや、筑波山の白雲を見て、拠る辺のない旅の身にためいきをつく様子も詠んでいる。
青木がこの苦労続きに見える旅をどう感じていたかはわからないが、すでに青木の心中にあった「わだつみのいろこの宮」の構想を道中で不空に話し、不空が応じて「古事記」に対する自分の思いを、滔々と語ったのは間違いなかろう。
そして、青木はやはり次に描くべきはこの絵だ、という思いを固めたのでもあろう。
いわば不空が、未だならざる一枚の絵「わだつみのいろこの宮」に、真っ先に絶賛の言を与えた瞬間であったと言える。不空は、青木が次に描く、未だ目にせぬ絵が、青木生涯の傑作であろうことを、心から確信したのだ。
「乞食篇」連作の末尾に、
「『わだつみのいろこのみや』は實に吾が一場の立談より、愕然として沈思より醒め、而してなれり」
と書いた不空の思いとは、そういうものだったであろう。
この旅の間の青木の絵は伝わらないので、筑波山風景を題材にした当時の絵を借りて、この旅の空気に思いをはせてみたい。
不空は、「亡き友青木繁の霊前に捧ぐ 五月」と最後に付言した連作「発情浄心」を、「乞食篇(こつじきへん)」に続いて大正8年に発表する。
この一連は、歌中には詠みこまれてはいないが、青木との青葉の季節の乞食行脚への追憶が核にある歌群だろう。昔の辛苦を思えど、その思いを共にした友はすでに逝いて遠い。
不空の指先は拭う涙で濡れていたであろう。真情のこもったいい歌である。抜粋して掲げる。
「発情浄心」という連作題から思われてくるのは、自分の歌人としての来し方を顧みれば、その決意は、明治40年の青木との乞食行脚に端を発しているという思いが深かったということか。
上に名を挙げた青木画業を伝えた最大の功労者、梅野満雄にも次の歌がある。
繁ありへし頃ゆ半ば梅野半ば青木と現身(うつしみ)分けて 梅野満雄
この歌もまた、生半可な慕情などでは詠めない。
令和4年10月 瀬戸風 凪