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ワタクシ流☆絵解き館その184 「白馬賞」青木繁・幻の受賞作品へのアプローチ②⇒「吠耶舎と喬多摩」
まだ東京美術学校西洋画科の学生だった青木繁の、画壇への登場は、鮮やかだった。周囲はその画才、豊かな想像力に目を見張った。青木繁21歳。
その出発点である、明治36年 ( 1903年 ) 第8回白馬会展 ( 場所・東京上野公園元内国博覧会跡第5号館 期間・9月16日~10月27日 ) においての、「白馬賞」受賞作品で、現在確認できず、どんな絵かわからなくなっている作品を、前回に続き、展覧会の出品目録に載るタイトルから推測してみたい。
■ 出品目録312の「吠耶舎と喬多摩」
読みは「ヴェーヤシャとゴータマ」。どちらも人名。
ゴータマとは、生まれた時の名がゴータマ・シッダールタ ( サンスクリット語 ) で、釈迦族の国の王子であるため釈迦とよばれたお釈迦様である。さらに仏教では悟りを得た者を仏陀とよぶ。
そのため悟りを得た人として、ゴータマ・シッダールタ=釈迦=仏陀なのだ。
一方のヴェーヤシャ=ヤシャは、富裕な家の子であるが、仏陀に出会い、すぐさまその教えに導かれて、出家し仏陀の弟子になった男である。
ヤシャが仏陀に会ったのは、仏陀が樹下の瞑想の果てに悟りを得て、サンガ ( 修行仲間の組織 ) を運営し始めた頃、つまり最初期の弟子である。
作者不明だが、仏陀に出家を請う耶舎を描いた日本の絵がある。
![](https://assets.st-note.com/img/1664453200534-bYvc9i47FT.png?width=1200)
この絵の場面の後はこうなる。
「出家の許しを得たヤシャが直ちに心解脱して阿羅漢果 ( ※宗教的な最高の位 ) を得る」
「ヤシャには50人の在家の友人がいた。いずれも良家の 息子たちで、彼らはヤシャが出家したと聞いて、彼らも出家して心解脱を得た。その時世間に阿羅漢 ( ※優れた宗教的修行者でサンガの構成員 ) は61人となった」( 原文を意訳 )
と大正新脩大蔵経という原典に記載してある。
ヤシャと仏陀とはそういう関係であるから、目録312の「吠耶舎と喬多摩」というタイトルの絵は、①二人の出会い―教えを聞く場面 ②出家を請う場面 ③出家を許されて、友人たちを誘い仏陀に会う場面 といったような絵柄になるのではないだろうか。
■ 画像にのみ残る仏教主題の絵
下に掲げた絵、青木繁「仏陀時代の面影」は現在、「ウパニシャド(優婆尼沙土)」という題名に変更されている。この絵は以前の記事で、発表後行方不明で画像のみ残る絵として紹介した。
もちろんこの絵と、「吠耶舎と喬多摩」は別物だが、おそらく制作年も近く、仏教主題の青木の絵として、画像だけでも残っているのは貴重で、何かの手がかりを示していないだろうか。
もし上の推理の 「③出家を許されて、友人たちを誘い仏陀に会う場面 」 といった絵柄だとすれば、下の絵のような群像図であっただろうかと想像してみる。
![](https://assets.st-note.com/img/1664527859974-RROzzCYuoz.png)
■ 出品作の絵は、描いたあとは友人に託したのか?
青木没後初めての画集、大正2年4月、政教社刊「青木繁画集」の中の追悼文「噫、青木繁君」で、昵懇だった友人梅野満雄がこう述べている。
明治35年には本郷追分町秀望館に移ったが、間もなく此処を去った。全く着のみ着のままに去ったのである。自家苦闘の記念作品等は、顧慮する暇がなかったのだ。君が此の許多の遺留作品の中には世に知られていない大作「筑紫野の落暉」(未完成品)もあった。白馬賞を得た印度吠陀、ペルシアアベスタ及び日本神話等の研究画稿十数点もあった。
着のみ着のまま去る、というのは、ツケが溜まってそれを踏み倒すように逃げたというような事情が浮かんで来る。
つまり第8回の白馬会展出品目録に載る15点の作品は、梅野満雄に託したと見るべきなのだろう。梅野が青木の意向に沿って、白馬会展出品の手はずを整えたのかもしれない。
令和4年9月 瀬戸風 凪