物語のアルバム scene2 流木奇譚
海岸の岩鼻に座る青年の姿に男は気づいた。
見るともなく遠目に眺めていると、その人影がふっとかき消えた。
と次の瞬間、影は波間に現れみるみる沖へと遠ざかった。
男はとっさに波打ち際へと走り出し、海に向かい大声で叫んだ。
心臓が激しく鼓動していた。
— おーいだめだ。戻れ戻れ、沖へ行ってはだめだ。
けれど波間の影は目を凝らしてもどこにもなかった。
男は、自分が見たものは幻であったと思わざるをえなかった。
そのとき背後の砂浜から、男よりもさらに年上の老いた男の声がした。
— あなたは誰に向かい叫んでいたのですか?
— いや、人が‥‥沖へ流されたのを、いま見た気がしたもので。
— そうですか、確かにそう思えば人影にも見えましたね、あの流木は。
— えっ流木!流木? あの影が。
— しかし、あなたの叫ぶ声には恐ろしいほどの力がこもっていましたな。
❖ ❖ ❖ ❖
— 実は30年ほども昔に、私は友人をここで失いました。
その日、溺れているこどもがいるという騒ぎを聞き付けて、友人と二人して海へ飛び込みました。
こどもの流されているところまで届いたのは友人の方でした。
そして、こどもを岸へ岸へと押しやるようにしながら泳ぎ、後方で遅れていた私のところまで来たときに、友人の姿が、ふっと遠くなった気がしたのです。
けれど私の腕には、こどもがぐったりとなってすがりついいていました。
私は友人から託されたこどもを浜へ戻すだけで限界でした。
友人の行方を追う余力はありませんでした。
友人は言葉もなく波間に消えて行ったのです。
その辛 ( つら ) い記憶が私に幻影を見させたのでしょう。
老いた男が言った。
— そうでしたか、しかし不思議ですね。あなたが海に向かって叫んでいる姿を見た時、私に目に映ったあなたは、まぎれもなく一人の青年でした。
とても、こうして今私と話している壮年のあなたと同じ人には思えないのです。
その日駆け出したあなたちの幻影を、私も見たのかもしれません。
こんなことを言うと、きれいごとで語ると思われて、あなたには失礼に当たるかもしれませんが、ある話を思い出しました。
雁 ( がん ) は海を渡るとき木の枝を咥 (くわ ) えているという伝説があります。はばたきに疲れたら、その枝を海面に落として波間に休み、再びはばたいて、めざした場所までたどり着くというのです。
あなたの友人の魂は、( おれはいい処へたどりついたよ ) と教えに来てくれたのかもしれませんよ。雁をめざした場所へ運ぶ木の枝のように、彼をよき処に導いていったであろう流木をあなたに見せることで。
男は瞑目 ( めいもく ) し、海に向かい掌を合わせた。
消えていった流木の影に。
令和5年5月 瀬戸風 凪
setokaze nagi
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