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ワタクシ流☆絵解き館その229 青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ①

高島宇朗 (1878―1954 ) は、青木繁と同郷人久留米の人で、青木繁畢生の友である。
この人は、上流の地位を得てもおかしくない境遇に生まれているのに、その人生は屈折があってとても普通の人生とは言えず、現世的な尺度で見れば、満ち足りた最期を迎えたというふうには見えない。見ようによれば拗ね者であったかとも感じられるほどだ。その生涯にはいくつもの謎がある。

この記事を書くにあたり、坂本繁二郎の弟子にあたる今日存命の( 百歳が近い長寿の方 ) 某洋画家に高島宇朗について知るところを尋ねてみた。八女市黒木町田本の中島家と言われたように記憶するが、「立派なお屋敷で青木の絵と、宇朗の書が掛けてあるのを見たことがあるのですが、青木の絵よりも、宇朗の書を立派だと感じたことが心に残っていますよ。志は高い人だったと思います」と柔らかい口調でおっしゃっていた。某洋画家が師事した坂本繁二郎 ( 宇朗の同郷人・同時代人 ) は、高島宇朗の人格は認めていたとも証言された。
某洋画家が見たものとは違うが、宇朗の書を下に示す。

高島宇朗掲額 銘は通達居士(仏門の名乗り)高島宇朗詩集「止息滅盡三昧」より転載

しかし、終焉 ( 昭和29年 ) の地、尾道市原田で当たってみると、宇朗のことで語り継がれていることは皆無であった。寺を持たない僧侶とはいえ、町に4年間住んでいた僧侶のことが、何も記憶されていないとは不思議だ。この人の人生の特異さを以下列挙してみる。

禅宗僧侶の姿の高島宇朗 昭和2年 高島宇朗詩集「止息滅盡三昧」より転載

■ 高島宇朗の人生の特異点

①―酒造業、製蝋(ろうそく製造)を営み、広大な土地を所有していた富裕な家の後継者でありながら、その家業を継がず弟に家督を譲って、禅宗の僧侶として生涯を終えた。しかし、詩人であることには執着し続けた。
②―若い日にまだ画学生だった青木繁に東京で出会って親しく交わり、その友情の賜物、つまり青木繁が高島宇朗に喜んで手渡した作品を大事に持っていた。
③ ―息子日朗 ( じつろう )氏 、娘満兎 ( まと )氏 が昭和初期、ともに若くして共産主義の、先鋭な活動家になり、日朗氏は検挙投服役し出獄後病死、満兎氏は共産主義者一斉検挙の際、潜伏先の二階から飛び降りての負傷が原因で、間もなく亡くなっている。
④ ―しかし宇朗自身には、共産主義活動の形跡も、後援的言動もない。
⑤ ― 実弟に画家高島野十郎がいて、野十郎は学業成績抜群で将来を嘱望されたにもかかわらず、世捨て人のような隠士的沈潜の生き方を選んだことに、兄として、大きな影響を与えたことがうかがい知れる。人柄の高潔さを周囲に認られていた野十郎は、この兄を生涯慕っていた。
⑥ ―東京近郊各地、故郷久留米 ( 1500平方メートルにおよぶ広大な泉水の庭のある元久留米藩家老岸家の別荘地を購入)、鎌倉 ( 建長寺 ) 、太宰府 ( 碧雲寺住職 ) 、広島県 ( 福山市松永承天寺、尾道市原田 ) と住居を転々とし、戦中には故郷久留米をまるで追われるように出郷していて、戦後には何のゆかりか、尾道市原田の廃屋を草庵として、昭和29年ここで亡くなっている。流浪の、富貴も貧苦 ( 宇朗自身には清貧の境地 ) も味わった人生だったと言える。
⑦ ―学者僧侶といってもいい学識を持っていて、仏教雑誌に連載を持ち、詩も載せ、東洋大学時代の学友である中国経済史の泰斗とも生涯交流があった。
⑧ ―青木没後、坂本繁二郎ら青木の他の友人たちがこぞって、青木繁芸術を世に広めるために、展覧会開催や作品集出版に尽力した際、所蔵絵画の公開を頼まれたのに協力せず、その営みを黙殺するような行動をとった。
⑨ ―しかし、自分の所蔵する絵を、美術雑誌「みづゑ」で紹介したり、京都の画廊で公開するなど、単独での青木顕彰の行動を見せた。

上に簡約した宇朗の人生は、世に知られているとは言えない。高島宇朗の名が何かの書籍に出て来るのは次の場合に限られよう。

一、生涯にわたり詩作していて、出版したその詩集に触れた記述、評論等
二、青木繁との親密な交わりがあったことから、やや詳しい青木の伝記の中

一よりも、二の場合のほうが断然に多い。
もし高島宇朗が親炙したのが凡庸な絵描きであれば、高島宇朗の名は、後世において語られることは先ずなかっただろう。
青木繁の最盛期へ向かう心機充溢した時代の絵のいくつかが今日残るのは、高島宇朗が後世に残した大きな功績となった。
しかしそのこと自体はさほど珍しいことではない。画家が友人に多くの絵を有償無償を問わず渡すことはある。友人を信頼していたことの証だろう。

ここからは、上に番号を付けた事跡について述べる。
①について
高島宇朗の父は何者であったか。
高島嘉蔵、久留米の清酒「千代の友」の酒造業、久留米の産物櫨を原料とする製蝋(ろうそく製造)経営者であり、設立明治33年になる福岡県三井郡山川銀行の取締役、明治22年から26年までは三井郡合川村の助役。製蝋は明治中期ごろまでは、大きな利益をもたらす筑後地方の主要産業であった。
喜蔵は久留米では指折りの資産家であり、土地の名士であった。その子に生まれ、宇朗は後継者として期待されていたはずであるのに、中学を中退するなど、まったく親の期待には反した青春時代を過ごした。
これは彼の知的な能力が期待に応え得ないものであったという理由ではないようだ。その証になる家系に目をやれば、実弟高島三郎は、東京帝国大学工科卒で、のち長崎三菱造船所技師から、農林省技師になったエリートであり、同じくエリーコースを歩める位置にいながら、画家の道を歩んだもう一人の実弟野十郎もまた、東京帝国大学農学部水産学科を首席卒業した優秀な頭脳の持ち主であった。かなり優秀な弟たちであろう。また宇朗の書いた文章を読めば、東洋の漢籍や文化につき該博な知識を身につけ、巧みな表現力を持っていた聡明な人であることは瞭然である。
敷かれたレールからの逸脱というのは、つまりは余人のうかがい知れない人生観から、家業を敬遠したと言うべことであろう。

かつてあった山川銀行紹介記事
全国の酒造業者紹介記事
弟高島三郎を紹介した紳士録 高島家戸主は、宇朗の弟賢太になっている
家業の酒造業を継いだ弟の高島賢太の記事

②について
 一例として、今見た光景をスケッチ板に描いた、と言って高島宇朗の下宿を尋ねた青木が、そのままその絵を置いて行った、と宇朗が書いている。その絵が今日に伝わる「少女群舞」である。昭和16年の美術雑誌「みづゑ」でこう述べている。

「空は、カラッと晴れあがって、空っ風吹きさらしの、明治三十七年、春まだ浅き、寒く冷たい午後、日没近くであった。青木は、描いたばかりで、絵具の乾かない此の愛らしい油画を、以前から彼が所持していた欅箔置の古額縁の小型な、くすみ剥げたのにはめ込み、長い吊り紐を付け、提げて来て、明かりぐあいを見定め、宇朗が室の一方の柱にかけ下げ、今、関口の滝の近くで、可なり烈しく吹きまくる風の中を、嬉々として快走し去る学校帰りの少女達を見たので、描いて来ました『よく出来ました』と、さも、うれしそうに、ながめ、よろこび、宇朗も一緒によろこんで、話しこんで、やおら其のまま、此の画を置いて、彼は帰った」

昭和16年 美術雑誌「みづゑ/443号」掲載の」青木繁画無背窟蔵品附説」の文章から

また、昭和2年に改訂発行した詩集「せせらぎ集」に載せた宇朗の思いの人の女性像も、一枚の写真をもとに、青木がその肖像を色鉛筆で描き、宇朗に渡したものである。この絵については、「青木繁画無背窟蔵品附説」の中で「わが青木が友誼の純白と、女性にたいして抱持せし清真とには宇朗今なお感謝と敬意と描くところなき思いに満たされ居る所以である」と述べている。 

青木繁「芳子像」色鉛筆  高島宇朗「せせらぎ集」に所載

高島宇朗旧蔵の青木の油彩「海」、「輪転」、「少女群舞」は、現在美術館に収蔵されている。いずれの絵も、青木繁の芸術を知る上で重要な作品である。しかし、淡彩画や素描など ( あるいは油彩画も ) は、所有していた絵が何枚もあったのに、それは今日どこへいったのだろう。
晩年の高島宇朗に会って、多くのことを聞き出した美術史家・評論家河北倫明氏も、昭和29年に高島が尾道市の山間部の町原田の草庵で亡くなったあと、所有していた絵について調査したような記述が文献では見当たらないのも不思議だ。
散逸することなく遺族がそのまま相続所蔵されたのだろうか。しかし高島家蔵というキャプションのついた青木の絵を見ない。

長い記事になるので、続きは「青木繁絵画の保護者、高島宇朗の屈折 ②」とします。
                               令和5年3月   瀬戸風 凪
                                                                                        setokaze nagi



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