ワタクシ流☆絵解き館その220 夢幻美術展「井戸のほとりから物語は始まる。第一章」
青木繁の名作「わだつみのいろこの宮」に描かれた山幸彦豊玉姫の出会いは、井戸のほとりだ。
ほんの50年前までは、井戸は生活には不可欠の場所だった。いや今でも世界に目をやれば、井戸なくては生活できない民は、幾億人といる。井戸は生活環境の基軸となる場所であり、人々がそこに寄る広場の始まりの場所だったと言ってもいいだろう。
今回は、そんな井戸のほとりを舞台にした絵画を見つめたい。作品数が多いため二章による構成で、今回は第一章。
■ 井戸のほとりの男と女
アレクセイ・ヴェネツィアノフは、農村の日常生活を描いたロシアアカデミーの画家。貧しい若者を集めて美術塾も経営した。師弟たちはやがて農村をテーマにした彼のジャンルを引き継いだ。
背後の女の人は、( おや、あやしい男じゃないのかい ) という表情だ。
ボグダン・ヴィレヴァルデは、ロシア帝国の芸術家であり学者。男は騎兵のようだ。戦地にゆく前か後の、ひとときの安らぎの情景だろうか。
下の歌川国貞の浮世絵は、二枚併せてひとつの図。
■ 宗教説話の井戸端の情景
下の絵のヤコブは、イスラエルの建国神話の人物。絵のタイトルにあるラケルとはこの場面に描かれた出会いの14年後に、やっと思い叶ってヤコブが妻とした女性の名だ。
絵は、ヤコブが兄との家督を巡る争いで、叔父の国に赴いたときに、ラケルを見初める場面である。その場所は井戸のそばであった。
下の絵のジェイコブとレイチェルは、上の絵で見たヤコブとラケルのこと。英語読みするとジェイコブとレイチェルになる。つまり上の絵と同じ場面だ。
下の絵のレベカ ( またはリベカとも発音するが以下レベカという ) とエリエゼルのエピソードの背景はややこしい。旧約聖書/創世記第24章の「イサクの嫁選び」、「イサクとリベカの結婚」がこの絵の主題になっている。しかし絵のタイトルは、レベカとエリエゼルである。
じつは、エリエゼルとはイサク側が、嫁探しに他国に派遣した下僕のことで、レベカはそのエリエゼルが見つけ出して来たイサクの妻となる女性なのだ。
絵の場面は、エリエゼルが、嫁探しの苦労の末、こんな女性はいないか、その女性が理想だと内心で祈った通りのことをするレベカに出会って驚き、この女性こそ、主人イサクの妻にふさわしいと確信する場面である。
ちなみにイサクとは、アブラハムの子であり、アブラハムこそは、ユダヤ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒の共通の太祖であり、最初の神の預言者である。
レベカはどの絵も、若くたおやかな雰囲気だが、エリエゼルの方は絵によってイメージが違っている。井戸も、丸型あり、角型あり、一部欠けたものありとさまざまだ。
下の絵は、宗教絵画ではないだろうが、こどもたちが、キューピッドを思わせる描き方なので、ここに添えた。井戸の前で太鼓を叩く様子には何かの寓意があるようだがわからない。
■ 生活の中の井戸端の情景
人影のない井戸の絵を二点並べる。
鏑木清方の絵は、皇居の桜田濠沿いにある柳の井戸である。
アメリカの諸都市の原型は、ヨーロッパの街にある。アメリカへの移民たちが、ヨーロッパの街の広場をモデルに街づくりをしていったのが、うかがえるような様子を写した版画だ。
ヘンドリック・ホルツィウスの絵の井戸は、上に掲げたヤン・ファン・ホイエンやレンブラントの絵の井戸によく似ている。
暮らしのすぐ隣に井戸があったのは、世界各地東西変わらない。
■ 井戸端のこども、少女、美女
ヨハン・ゲオルグ・マイヤー・フォン・ブレーメンは、9世紀ドイツ・ブレーメン出身の写実画家で、農民、家族を題材にした絵画を多く描いた。ここで2、3時間は飽きることなく遊んでいそうなこどもたち。
「最初のキス」のタイトルから、この絵もまた、処を変えた「わだつみのいろこの宮」と見てもいいだろう。
少女像を得意としたブグロー。失われゆかんとする黄金の幼年の歳月が、われた水壺に象徴されているのだろう。
アルプスの光がはじけている井戸の水。労働の厳しさを思わせて、娘の頬や目元は上気している。
下の絵のラケルは、「井戸のほとりのヤコブとラケル」の絵で説明したヤコブが妻とした女性の名。レアはその姉で、ラケルの前にヤコブの妻だった。この姉妹には悲話がある。伯父ラバンの元へきたヤコブはラケルの方に恋心を持つが、伯父の「七年働けば結婚を許す」という言葉を信じて働き、念願かなって結婚を許され、迎えた花嫁を見るとそれは姉のレアであった。ヤコブは失望するが、ラバンの求めでさらに七年働き、ついにラケルを妻として得たという話だ。
詩人ダンテもまた、運命的な存在、一人の女性ベアトリーチェを熱く恋い続けたところに、ヤコブとの共通点がある。
小林古径の絵の「極楽井」は、「江戸名所図会」に小石川伝通院のあたりにあった霊泉として名高い湧水で、少女たちがよく汲みにきたとある。
絵のタイトルの「筒井筒」は、(丸い井戸の竹垣 ) のことで、「伊勢物語」「大和物語」の段で語られる話だ。
互いに惹かれていた幼馴染の男女が結婚することを意味する。筒井筒のなれそめ、年をとっても仲がいい、などと使えば風流な表現だ。
最後に青木繁の「わだつみのいろこの宮」を置こう。
海神の国の下にあるもうひとつの深い世界を暗示するような井戸の水面だ。
令和5年1月 瀬戸風 凪
setokaze nagi