自分の研究視点から子育てを見てみようとした、系統主義編
先日の研究視点からみてみようとしたら、前置き長すぎた編自分の研究視点から子育てを見てみようとした、児童中心主義編の続き
保育を大きく4つにわかてみて、その一つの軸を児童中心主義ー系統主義としました。
児童中心主義、系統主義については、恩師が共著された「幼児教育課程論入門」を大変大変参考にしています。
以下、先ほどの本を抜粋・編集し、私なりにまとめたもの(当時)の引用です。
系統主義
重要なのは、発達観
「より熟達したパートナーとの協働作業が発達の源泉」「内的活動の重視」「関係論的視点」「社会的・文化的存在としての子ども」
①積極的教育論の原則
子どもの興味や関心を無視するのではないが、それだけでは偏りがでるので、質的発展・発達をきちんと保障することが難しい面がある。子どもにふさわしい生活を見通しつつ、興味関心を積極的につくりだす部分にこそ、乳幼児教育におけるカリキュラム構成の役割があると考えます。
②系統性・適時性・場面性の重視
客観的にある人間の文化、行動様式、知識からカリキュラムを構成すべきという部分に注意をはらってください。乳幼児教育の場合、道具や環境をどのように使用するかということを意味するのですが、こうした文化や行動様式、知識が一定の系統性と適時性を持っていることを考えれば、保育の場合にも、系統性・適時性・場面性を考慮することは教育課程の重要な役割になってきます。
③系統主義保育は保育者主導の設定保育と同じではない
系統主義とは「一定の原則のもとに、系統的に保育内容を組織する」保育であって、その原則に則っていけば、保育の形態は多様に考えられるものであり、むしろ、系統的な見通しがあるからこそ、子どもの自主性を尊重できることが多いと考えます。実際の保育の中で保育者が主導的な役割を果たす設定保育を意味しているわけではありません。
系統主義では、重要なのは発達観とあるように、一定の発達観をもとに、子どもにとって良い質的発展・発達となるように教育を行う。その台本としてカリキュラムがあるように思う。
われ発達観というのは、巷にあふれているし、多くの保護者も気にする指標の一つになっていると思う。
市などで行われる「〇か月、〇歳検診」にも母子手帳にもそれぞれの月齢の所に「~~はしましたか?ーはい・いいえ」というような質問項目がって、それを見た人間は自然と
「あ、この時期にはこれくらいのことできてなきゃいけないのかな」なんて感覚になってしまうんじゃないかな
これまでの多くの赤ちゃん・子どもたちを見てきた小児科医の先生たちや有識者の方たちが「まぁ、だいたいこれくらいの時期にはこれくらいのことできているかな」っていう統計のもとで発達一覧のようなものがあり、でも、人間一人一人個性があるように、発達の速度だって、できるできないの得手不得手だって個性があって、だからそれに左右されすぎんのもよくないよ、安心してねとうたっている。
発達観となっているので、大事なのは発達に対する考え方
こだわりすぎても、無視しすぎても、気になるよね~というお話。バランス
このまとめを今一度読み返して、コウ(息子)との関わり・子育てを見てみる
系統主義な関わりしているかなと感じる点
🍎重要なのは発達観
この発達に関する育児書だとかも沢山出ていて、私は数冊持っていて
ちょこちょこ読んでいるので、気にならないようで気にしているんだなと改めて気づかされた
もともとの知識もあるだろうけど、今手元にある本はこのへん
「育児百科」 さらに新しいのが出ているけど、私は1987年版を持っていて少し古いけど、本で書かれている姿とコウ(息子)の姿と被ることは大変多い。病気についてよく書かれているので、安心剤として母から譲りうける
所々母がマーカーしているので、当時の母を想い、感謝する
「パパは脳研究者」「赤ちゃん教育」「NEWSWEEK 子育て編」
この3冊は全て赤ちゃんを脳の発達から紐解いて話している
なんか私脳科学好きなのかも笑
「え、こんなことできるん!?」と焦らず、できる範囲をやりつつ「あ、やはりそうか」「へー」とその月齢の時にちょこちょこ読んでいる程度
🍎積極的教育論の原則、でも保育者主導の設定保育とは同じではない
さすがに、子育てに年間指導計画も月案も書いてないけど笑
書いてみたら勉強になるかも、単純にそんな余裕が今はないけど
無理やりさせるようなことはもちろんないものの、コウ(息子)の成長や姿に合わせて環境は結構変えているなと改めて思った
例:つかまり立ちができるようになったので、立った先に自分の顔が見えると面白いなと思って鏡をおいてみたり(写真のコウは鏡見てないけど笑)
以前の記事の「お家でアスレチック」も「その続編」も、何気なくしてたけど、ズリバイできるなら、平たんな部屋だけよりもより筋肉発達鍛えられるかなと思ってのことだ
赤ちゃんはきっと色々な思いがあるけど「〇〇したい」「〇〇してみて!」と言葉にはできないので、環境設定は全て私のものになっていく。
ただ、この時にせっかく用意した環境をコウが思ったように遊ぶかどうかは別の話で、そこを「せっかくしたんだからやってよ~」とは思わないように意識している。
「こう遊ぶんだよ、ほらっ」を自分が遊んでみたりすることはあっても、コウがガン無視で舐めたりすると「あ、まだ早かったか、修正修正」と今回の遊びはもうちょっとコウにしたら先なんだなという理解になっている。
発達を頭にいれつつ、系統的にオモチャを変えてみたり、自分の中の「息子現状把握」みたいなものがものすごく細かいトライアンドエラーを何気なく生み出していると気づく
そう思うとやっぱ、カリキュラム書いたら面白いんだろうな~~ムズムズ
設定する時の「もっとこうしたらコウは面白いかな」という視点は児童中心主義の方にも寄っている。
🍎系統性・適時性・場面性
これはまだコウの月齢(0歳9か月)では沢山例があるけでもないけど、例えば、立ちながらごはん食べずに、ちゃんとイスに座らせるとか、「いただきます」という言うなどの生活習慣場面に大きく関わることが多い。あとはこれからになってくるけど、行事系だろう…
また、道具の使い方などは、スプーンの持ち方くらいで、まだまだオモチャの多くをなめる段階。その中で、なめてはいけないものは「食べない」と同じ言葉で繰り返し伝えている。コウも言われ続けてきたものは段々なめよかなとチャレンジする回数が減っていて、こちらをうかがう視線を送りながらゆっくりなめてみたりするので「あ~すでに取引しているのか」とクスッとなる
「硬いぞ、細長いぞ…あーこの枝食べたいなぁ…どんなかなぁ…」なんてこと考えてるのかな???^^
児童中心主義編、系統主義編を見てみて
どちらがどうというわけでもなく、バランスなんだろうなと思う
学生の時は、恩師のもとでこれらを「融合の保育」として学んでいた
学んでいるときはわかっているつもりで、机上の話も、
子育てを少し振り返っただけで自分が両方をとりいれているとわかったので、保育を丁寧にみるともっと面白いものが見えてくると思う
今後、成果重視編、過程重視編を経て
当時の研究ではアンケートの質問項目で保育をパターン分けしたのだけど
それを子育てバージョンでも作れないか色々な場面だったり、状況ごとにチャートみたいなものを作れたらいいなと思案中(わくわく
そしてもちろん当時の質問項目の再検討して、保育でももっと色々チャート作れたら何か保育を見直せるのじゃないかと思案中(わくわく
⇒しかし、連続投稿したい思いと構想の大きさが合っていないので、かなりぼちぼちあげていきます
(保育とは関係ないけど、「フランスパンのうた」というのを知ってはまってしまう。人生はバランス~~♪)
砂場写真についてのつぶやき…
まだ一人立ちも歩きもできない状態で公園の砂場や芝生を経験させるのは、かなり労力を伴うということだけは身に沁みた…外気浴がよくて、自然と触れ合うことが良いとはわかっていても、本当に子のためにつきっきりになるので時間も体力もメンタルも必要だよね
あぁ、こんな平和な時間もあと1か月を切ってしまった…