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「共同体感覚」はアドラーが考えた社会変革の切り札

アドラーが出した幸せの結論、「共同体感覚」とは何か?

何か?と書いておきながら何なのだが、アドラー自身がうまく表現できなかったことを、まさか私に言い表せるわけがない。
言い出したアドラーが亡くなって80年、いろんな人が様々な解釈をしているが「そう、俺が言いたかったのはまさにそれなんだよ~」とアドラーから太鼓判を押してもらえることは永遠にない。

日本では、日本にアドラー心理学を持ち込んだ野田俊作先生の説明が最もオーソドックスで、最もポピュラーなものとして広まっているのではないかと思う。それだけ、わかりやすいのだ。

アドラーの言い方よりももう少し分かりやすくしようと思って、私はちょっと違った言い方をしています。
まず第一は、「私は私のことが好きだ」ということ。(自己受容)
第二は、「人々は信頼できる」ということ。(他者信頼)
第三は、「私は役に立てる人間だ」ということ。(貢献感)

 ※野田俊作著「性格は変えられる」

この3つの表し方は、めちゃくちゃ理解しやすい。
ちなみに、同じ本にはこんなことも書かれている。

共同体感覚っていうのは、定義がとても難しいし、また、言葉で定義しても何も意味がないようにも思う。要は、これを実現することであって、議論することではないんです。(中略)
共同体感覚を言葉で言い表すことができるのは、それを体験した後だと思うんです。共同体感覚は言葉で定義できないように思う。それはただ体験できるだけ。

言葉で定義できない、しても意味がない、といわれていることを今まさに書こうとしている私。

ちなみに、アドラーが「共同体感覚」について初めて説明した言葉は、

共同体感覚とは、個人が、人々、動物、植物、無生物などのあらゆる対象と関係を持つときの基礎になっているものであり、われわれが生命と結合し、是認し、和解する力のことである。共同体感覚の豊かな諸相、たとえば、親の愛、兄弟愛、性愛、祖国への愛、自然や芸術や科学への愛、人類愛など、が攻撃性衝動と共に作用するとき、個人の精神生活を現実に形成する、その人の人生への一般的態度が出てくるのである。
※Adler.Alfred"Der Aggressionstrieb"In "Helien und Bilden"

さすが、後年の人々から「難解」と言わせるだけのことはある表現!!

このあたりを、八巻先生は

”人間が全体の一部であること、全体とともに生きていることを実感すること、それらを実感する感覚”

※鈴木義也・八巻秀・深沢孝之著「アドラー臨床心理学門」


と表しているし、向後先生は

”自分だけのためではなくて、自分が所属している共同体全体が良くなるように行動しようね、という価値観”

※向後千春著「アドラー”実践”講義」幸せに生きる」

と表している。


いずれにしても、「共同体感覚」でいわれる「共同体」は、
スケールがデカイことに間違いない。

共同体の定義は、アドラーの後継者たちの間でも意見が分かれるところらしいが、一番狭い定義をしているドライカースですら

「全人類」

※現在生きている人々だけでなく過去・現在・未来の一切の人類のこと
”共同体感覚は、単に、あるグループやある階級への所属の感覚、ないしはある民族(なり国家なり)への忠誠心を意味するのではない”
※R・ドライカース著「アドラー心理学の基礎」

と言っており、一番広い定義をしているといわれるルイス・ウェイに至っては

「宇宙全体」

共同体という言葉には、人間社会だけではなく、全宇宙との同一化の態度が内包されている。共同体という言葉には、人間仲間への愛だけではなく、自然への愛が、さらには、無生物への愛さえも包含されている。
それはすべての命あるものたちへの、大地への、海への、空への、われわれの美意識にもとづく親近感である。それはコミュニオンの感覚、本質的にわれわれに好意的な宇宙との交換の感覚である。
※Way,L”Again Gemeinschaftsgefuhl” Indiv.Psychol.NewsLetter 16,31,1966

と言っている。

壮大すぎる!!


ここまで読まれた方は薄々気づいているかもしれないけれど、
アドラーがイメージしていた「共同体」は現実の社会ではない

なぜか?


それは、人間は不完全な存在だから

私たちは誰でも、過ちを犯すことがある。集団で、いや集団だからこそ、誤った方向へ進むこともある。

アドラーは、第一次大戦で軍医として従軍しており、体にも心にも傷を負った人達を診ては戦地へ再び送り出す、ということをしていた。アドラーがしたことは、いってみれば、患者を治しているのか、再び死に向かわせる手助けをしているのか、どっちなんだかよくわからないことだったと思う。

私たちは時に、「自分たち」にとって大切なものを守るため、家族や民族や国というコミュニティのために、他のコミュニティの命を残虐に奪うことがある。
戦争はその最たるものといえるし、人間以外の生き物もコミュニティと考えれば、環境破壊も同じといえるかもしれない。

人類全体が同時に過ちを犯すことだってありえるのだ。
そしたら、今現実に存在している「社会」という共同体に適応することが必ずしも建設的とはいえない。

だから、アドラーは「共同体」の対象を現実の社会という枠にはしなかった。

なんてったって、世界大戦中なのだ。

ここからは私の想像だが、
「自分の国」という共同体のために貢献したら、「相手の国」にとっては破壊的な解答になる。
争いをなくすには、敵とか味方とかいう見方を改めなければいけない。
しかし、戦争中は「争う」ことで解決しようとしていることは、どの国も一致している。

そしたら、「国と国」とか「現実の社会」という概念よりも、もう一つ上の概念の「共同体」が必要だと、アドラーは考えたのではないだろうか。


アドラーが第一次世界大戦後に、仲間たちに言った言葉がある。

”世界が今必要としているのは、新しい大砲でも、新しい政府でもない。
それは共同体感覚だ。”

この言葉には、「社会を変えるためには、個人個人の成長しかない」というアドラーの確信と、「共同体感覚が育てば個人が変わり、それを通じて社会を変えられる」というアドラーが未来に託した想いがある。

同時に、「同じ人間同士なのだから、お互いが相手のことを理解しようと話をすれば、解決できるはずだ」という思いも込められているように思う。

アドラーが表した「共同体感覚」の言い方は様々あるが、シンプルなものには
”相手の関心に関心を持つ”
“相手の目で見て、相手の耳で聞き、相手の心で感じること”
がある。
関心を自分以外の他人に向けること、相手のことをわかろうとすることが
人と人とがつながる鍵となる。

アドラーの弟子のドライカースは、共同体感覚のことを
横の関係」といった。

そして同じくアドラーの弟子であるアンスバッハーは、こういった。


共同体感覚とは、愛である

私にはこの表現が、一番しっくりくる。

共同体感覚と同じくらい、「愛」も定義が定かではないし、言葉では言い表せないし、実態は不明なのだけど
しかし確かにこの世界と人々の心の中に「ある」と思えるものだから。

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