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演技経験0の私が、おばちゃんパワーで参加した栗山民也さんWS(2)

9月初旬、芸術館から台本が送られてきました。

井上ひさしさんの作で、広島の原爆を題材にした台本でした。
私は8/31に長崎の原爆が題材のこまつ座『母と暮せば』を観劇しており、9月に入っても私の心の中には、その作品の主人公である浩二と伸子さんが住み着いていたので、井上ひさしさんに呼ばれてる!と勝手に運命のようなものを感じて読み進めました。

果たしてこの台本がどのように扱われるのか。
この時点ではまだ、この台本を演じる事になるのか、ただ読み解くだけなのか、わかりませんでした。
なので、私はなんとなく呑気に考えていたんです。

1日目
モノローグが終わり、その雰囲気で栗山さんがその場で配役を決めました。
私は『女5』でした。
この物語は、少年3人とおじいさん、そして新聞社の女性が中心の物語で、私の『女5』は、ナレーションが主だったので少しホッとしましたが、

「じゃあ始めましょう」

となんのウォーミングアップもなく、始まりました。

「え?!」

と、心の中で思いつつも、本読みは始まります。
始まる前には、これは朗読劇であると説明を受けましたが、いかんせん朗読劇を観たことがないのでどのようにするのか正解がわかりません。
何となく、少し感情を込めて読み進めればいいのかなと簡単に考えていました。

そう考えていた自分を殴りたくなるくらい、ホント、ホント真逆というか、椅子に座っているだけで、演る事は舞台を使った演劇と何ら変わりない。

舞台を使った演劇は、お客さんに向けて話してはならない。
そこに起きていることを魅せるのだから。反対に、朗読劇はお客さんに向けて言葉を飛ばして、見えないはずの風景を見せなきゃならないんだよ、と丁寧に栗山さんより。

何人かのナレーションの後、私の出番。
私なりに声を張ったつもりでしたが

「小さい。その3倍出して」

元々地声が大きい方なので、足りない?!とちょっと驚いてしまいました。

後々やっとわかるのですが、私の言葉は口先だけで喋っているだけで、言葉を発せていなかったんです。
ただ、その時は何とか声を張ってその場を凌ごうとしましたが、難題が。
他の俳優さんたちがまだやっていない『セリフ』が私に登場したんです。しかもほぼ触れたこともない広島弁!!

広島のおばちゃんが、その広島の平和さを表す会話なんですが、ここで躓く躓く。
何度も栗山さんに「違う」「もっと能天気な感じで」など指導頂くのですが、如何にもこうにも声が出ない、言葉が出ない。

「おばちゃんなんだから、おばちゃんらしく」

と挙句突っ込まれたりして。
それでもうまくいかず「また後で」と切り上げられてしまい、あきらめられた…と1人意気消沈。

でも、同時に面白さがむくむくと湧き出てきました。
だって、私は演技も何も知らない、ただのおばちゃんなのに、突然広島のおばちゃんになろうとしてるし、それを要求されてる。
栗山さんはそこに経験値など関係なく要求をして来てくださる。

そしてできない自分が本当に悔しい。

なんだこれ、演じるってなに?ちょっと待って、面白い。
と、トイレで1人手を洗いながら呟やいてました。よかった、周りに人いなくて。

その日は私以外にも様々な指導を頂いて、1日目終了。

帰り道は、このおばちゃんをどうにかしないといけないと言う思いでいっぱいでした。
俳優としての言葉の選択がひとつもない、今の自分に何ができるのか?を必死に考え、とりあえず、広島のおばちゃんが喋っている動画を無限に流しながら、自分の中に落とし込むという事を寝るまで続けました。

2日目
WSは午後からだったので、少し時間があり、昨日の復習を。自分なりにいろんなパターンの言葉を発してみて、これかな?いや違うな?などと試行錯誤をくりかえしました。

「演技ってホント正解がないんだ」

言葉を繰り返す中で突然ふと思い、そう思った途端急に怖くなって「怖い…」と1人ハラハラと泣いていました。

感覚的になんですが、正解のない俳優と言う仕事の底がある、その崖っぷちの端っこに少しだけ立ったような気がして、その『底』を感じて恐怖に慄いたんだと思います。

その時私は、俳優というお仕事は、その崖から飛び降りて行き、行き着いた底から言葉や表現を掴んで這い上がれる者だけが成れる仕事だと思いました。
私は、その底を少しのぞいただけ、いや、崖の縁に少しだけ近づいただけなのに、1人怖くなってる。

こんな恐怖と俳優さんたちは、ずっと戦ってるんだなと思ったら、もっと自分にできることがあるはずだし、恐怖で泣いている場合ではない。
崖の縁で立ち尽くすだけではなく、今の自分にもなにかできることはあるはずだと褌を締めて台本を読み返しました。
その時、友人のアドバイスを思い出しました。

「あなたはお話を作ったり、妄想するのが好きなんだから、そのおばちゃんのお話を作ってみたら?」

そうだ。セリフとしては一場面だけの登場だけど、そのおばちゃんはあの物語の中で確実に生まれて、生きて、そして死んでいったはずだ。
それをちゃんと意識しないとダメだ。
おばちゃんの人物を掘り下げてみよう、それが私に合った、今の私にできる方法なのかもしれない、と思い立ち、おばちゃんの物語を作りながら何とか輪郭をつけてみることに。
私はその時演じなければならない人物が後3人いたので、その3人とその家族の物語も考えてみました。

それが功を奏したのかわかりませんが、2日目のWS始まりで、昨日のおさらいをしたのですが「うん、いいね」とのお言葉。もちろん私に向けてではありません。全体に向けての「いいね」です。

でも、こんなに嬉しい「いいね」をもらったのは生まれて初めてなのかもしれないというくらい、椅子に座りつつ、小躍りする私がいました。

その時考えたおばちゃん像がこれです。

栗山さんが繰り返し伝えてくださっていたのは
稽古場は、俳優が自分の声を見つける作業をするところで、言葉の引き出しを作るんじゃない。
自分の声、言葉を見つける。
そのために、本当にいろんな言葉をしゃべる必要がある。
言葉を生かすのも殺すのも俳優の仕事。
言葉とはそれだけ豊かなんだよ、と。

それを聞いて、台本の一つ一つの言葉を、大切に発しなければならないなと心に刻みました。

3日目
この日は私の出番はほとんどなく、他の方たちの素晴らしい言葉の一言一言、それに対する栗山さんの台本に対する読み解き方の一つひとつを聞き漏らすまいと集中する日でした。
3日目になってくると、少しずつ他のメンバーとも打ち解けてきて、全体的な雰囲気が柔らかく。

これは栗山さんの雰囲気なのだろうと思いました。
栗山さんは、芝居は結果じゃない、今起きていることだから、1000本ノックなんて意味ないんだよ。僕は、俳優が2回間違えた時は、もう辞めさせる。間違った言葉を口が覚えてしまうからね、と。
その時、初日にうまく出来なくて切り上げられて意気消沈していたことを思い出し、あれは切り上げられた訳ではなくて、栗山さんの手法であり、優しさなのか!とわかり1人大感動。

演出家はオーケストラで言えば指揮者のようなもので、指揮者は演奏会当日は、実は適当に指揮を振ってもいいくらいの存在。大切なのはカリスマ性で、この指揮者中心に音を作ろうとカンパニーが団結していくことなんだ、と以前葉加瀬太郎さんが言っていたのを思い出し、演出家も同じなのかも。と思いました。

栗山さんが台本を読み解いた上で、伝えてくださる言葉は、こんな私にでさえ容易に広島の風景を、その匂いまでも想像させてくださる。

だからこそ、この風景を伝えなければと思わせてくれるんです。

栗山さんの凄さ、素晴らしさを改めて体感したのでした。

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