短編小説:風に舞うシーツ〜ドラマ放課後カルテより〜
保健室の外に干された真っ白いシーツがバタバタとよく晴れた夏の風に煽られて激しく泳いでいる。
「……うるさいな」
東多摩第八小学校に学校医として赴任してきたばかりの俺は、自由なリズムでバタバタと泳ぐシーツが憎たらしくなって、そう呟いていた。
どんよりとした呟き声とは裏腹に、夏の太陽がさんさんとシーツを照らしつけていた。
俺は小児科医だ。
学校に勤めるために、医者になった訳じゃない。
なんでこんな事になってしまったんだろう。
どう考えても医療がほとんど必要のないこの場所で、俺はどんな風に過ごせば良いんだ。
医療の場にしか身を置いたことがないので、何もかもがわからなかった。
なぜ医者になりたかったのか?
白いシーツを眺めながら、そんなことを考え始めていた。
周りの人たちは
「人助けをしたかったから」
「親が医師をしていて、かっこよかったから」
「医療の進歩に触れてみたかった」
など、明確な理由があった。
自分はそんな人を助けたいとか、そういう大層な理由はなく、きっかけは細胞だった。
人間の一番小さな器官である細胞たちは体の異常を見つけるとそこを修復するべく色々な事を行う。その結果が病気という形として現れる。その時、それぞれがしっかり役割を持って細胞たちは活躍し、その細胞が体の中に80兆個存在する。それを知った時、俺は猛烈に細胞に興味を持った。そこからそんな細胞が作り出す人の身体に興味が移り、医学部に入った。
元々成績の良かった自分はトップに近い成績で医学部を卒業し、大学病院の研修医として循環器内科に所属した。
臨床現場では日々、様々な病気を抱えた患者が診察に訪れた。そんな患者の体の中をしっかりと除き、病気を治していく術を身につけていく事が面白く、俺は細胞云々から体の中の事に興味が移り、増々医療にのめり込んでいった。
ある日、入院中の受持ち患者が意識を失ったと病棟からコールがあった。駆け付け検査を行うと脳に梗塞が起きている事がわかった。俺はすぐさま脳梗塞の治療に必要なオーダーを行い、経過を見守ろうとしたが、主治医の上級医師から声を掛けられた。
「この先は、脳神経内科の領域だから、転科する」
俺の担当する患者は、あっさりと俺の手から離れて行ってしまった。
その1週間後、患者は亡くなってしまった。
自分の担当する患者なのに、死亡確認をする事ができなかった。死亡診断書を書く事ができなかった。
責任を全うする事ができなかった。
周りの研修医はそれが当たり前だと言う。
人間の身体は複雑に出来ているから、専門医が必要なのだと。特に、大学病院の様な場所はそのスペシャリストが必要になってくる。だから、自分たちはそのスペシャリストを目指してここに居る。なので、専門外の事はその科に任せるのが当然だと。
俺はそれが納得いかなかった。
せっかく医師として患者の体の中を細胞レベルまで覗く事ができ、そのレベルから治す事ができるのに、自分は循環器の領域しか診る事ができないなんて。
「じゃあ、小児科に来ればいいじゃない」
そんな提案を受けたのは初期研修も終盤に差し掛かり、診療科のローテーションで小児科に移動したその日の出来事だった。
「小児科はさ、大人と違って外科以外は頭から爪の先まで担当医が診る事ができるんだよ。ある意味、ジェネラリストだな。興味があるなら、専門科、小児科にしてみないか?」
上級医の咲間から弾けるような笑顔でそう提案された。
あの時の悔しさを感じず、患者を診る事ができる?!
俺は目から鱗が落ちる様な思いで、咲間の提案を聞いていた。
「だけどなあ、牧野、お前不愛想だからなあ。小児科ってのは、他のどんな科より、患者さんや家族と関わりを持つことが必要になるんだぞ?」
そんな心配する発言を他所に、俺は専門に小児科を選び、小児科医師として働き始めた。
小児科は病気の幅もかなり広くその分知識も技術も必要で、大変な毎日だった。
だが、どんな病気だろうと小児と言うことで、俺は責任をもってその患者を最初から最後まで診る事ができるという充実感の方が勝って、毎日毎日知識と技術を磨いた。
「牧野先生は怖い」
「牧野は無愛想すぎる。もうちょっと色々説明しないとナースたちはついて来ないぞ?」
そんな言葉も聞かれる事があったが、病気が治ればいいのだし、これは元来の自分の性格なのだからとあまり気にしていなかった。
だが、ある日事件が起きた。
俺を訴えると言う患者家族が現れたのだ。
「牧野、何がどうしてこうなったのか、説明できるか?」
医局長である高崎からそう言われても、自分の診療内容に不備はなかったはずだし、訴えられるいわれは何一つないと思っていた。
俺の態度を見て医局長は深くため息を吐き、俺の方に向き直った。
「牧野、お前何で小児科医になりたかったんだ?」
「小児科は患者の頭から爪の先まで診る事ができるからです」
自分の核となる思いを述べる。
「そうだな、小児科医はある意味ジェネラリストだ。そして、プライマリケアを行う医者でなければならない、牧野、プライマリケアの理念は?」
「…患者を一人の人間としてとらえ、その人の身体や心が抱える問題を総合的に診る医療…です。でも、ここは大学病院で、高度な医療を必要とした患者が来るところです。プライマリケアは、かかりつけ医が担うものじゃないですか?」
「そこだよ、お前が勘違いしている所は」
「は?」
「牧野、この患者さんの説明をしてみろ」
PC画面には昨日入院してきた、1歳の男児のカルテがあった。
「ああ、腸捻転で入院した患者ですよね」
「腸捻転で入院した患者じゃない」
「え??」
この患者は昨日明らかに腸捻転の症状で入院してきた1歳0か月の男児だった。間違いはなかった。
「笠間瑠偉君だ」
「あ、はい」
名前何て当然のことだから、答えなかっただけだった。
「瑠偉君のご家族は?」
「え?ああ、病院に連れてきたのは母親でした」
「そのほかは?」
「え?必要ですか?その情報」
「あのなあ・・・」
医局長はカルテから目を離し、俺の方に椅子を近づけた。
「小児科ってのは、その名の通り小児を扱う。子どもってのは親にとって宝であることが多い。どんな小さな病気でも親は真剣に看るものだ。とくに命にかかわるような病気の子を抱えている親は、医療に対して信頼しつつ、常に猜疑心の目で見ている。この治療で合っているのか、本当にこの子は元気になるのか?なので、一挙手一投足を俺たちは親や家族に見られる事が多い。だから細かな情報が必要だし、細かな説明も必要なんだよ」
それは、自分自身も肌で感じている事であり、求められれば家族に状況説明をして来た。
「必要な説明はしてきたって思ってるだろ」
もちろん、という表情で頷く。
「その病気を支える家族の生活に、心を向けた事があるか?」
医局長が言っている意味が正直わからなかった。
「俺は医師です。細胞レベルから病気を見つめて、それを治すのが仕事です。それに家族の生活の何が必要なんですか?治療に必要な説明は、その都度していますし、現にそれでしっかり回復して退院していく患者も多いはずです」
「…それがお前の答えなんだな…牧野。お前は物事を自分基準でしか考えられない、人の心ってのはいうものを理解できていない。それを理解しようとしない限り、お前を小児科医として認めるわけにはいかない。お前がどんなに、臨床面で優秀だとしても、だ。この瑠偉君だって、腸捻転と言う病気の前に、1人の人間なんだぞ。そこに目が向かないようでは、正直お前はダメだ」
医局長は低い声でそう言って、ピリついた空気をその場に置いて部屋から立ち去った。
その時は自分の医師としての世界が360度変わうとは思っていなかった。
『牧野先生はここにいます』
生徒が作ってくれた自分の居場所を示す掲示板が、自分が保健室にいることを指している。
カーテンの向こう側には、スースーと寝息を立てる音。
ナルコレプシーの治療中のゆきが、決まった時間に保健室で睡眠を取っている。
外ではよく晴れた夏の終わりかけの空にシーツが風に煽られてバタバタとたなびいている。
この学校に来て1ヶ月ほど経っていた。
俺は児童一人一人の保健情報を読み込む。
「まきのせんせーー!!!」
男子児童が保健室に飛び込んできた。
「なんだ騒がしい」
「だって、体育館で遊んでたら転んじゃって、ほら!血がいっぱい出てきちゃってる。イテー!!」
「あーあー、何やってんだよ。ほら、そこの椅子に座れ」
…そうだ、この子は西山海斗、6年生だ。
パズルのように児童の顔と名前を合わせながら、膝から出血している西山を椅子に座らせ、傷口を洗う準備をし始める。
「あ」
西山が甲高い声を出して外を指差した。
シーツが風に煽られて、飛んでいってしまったのだ。
「あ!ヤバ!!お前、西山!シーツ取り込むの手伝え!!」
「えーー!俺足怪我してるのに?!」
「そんな傷、大したことないだろ!後でちゃんと処置してやるから!ほら!外行くぞ!」
「しょうがないなあー。てか、牧野先生、俺の名前知ってるんだ。びっくりした」
西山は俺にそう言って笑いかけて、膝から血を出しながら外に駆け出していった。
「当たり前だろ、学校医なんだから」
そうひとり呟いて、シーツを拾いに俺も外へ出た。