学びの履歴「わたしのほぐしかた」~#5 経験を疑う #アフォーダンス
ほぐされすぎて、溶けています。Angelaです。
今こちらで学んでいます。
第1回目のブログを書いて、そのまま音沙汰ないまま5回目を迎えてしまいました。ハハハ
それもこれも、「わからない」と向き合っているから、と言い訳をさせてください。本当にわからない。今回は、学びの概要まとめは割愛します。
前回同様、個人的なメモなので、このブログを読んでもアフォーダンスに関しての知識は得られません。悪しからず。
今回の課題図書
今回の課題図書は、解説しているサイトやら要約も見つかりづらく、今までの予習をどれだけズルしていたか、読解力が足りないか自覚。とてもきつい。背景理論が頭にないのですっとは頭に入って来ないんですよね。
理解度2%くらいでディスカッションして感じたこと
直接経験と間接経験について
間接的経験が流れっぱなしになるテレビを見るような環境ばかりに身を置くことを危険と言っている?
じゃあテレワークってなんだろう。
ワークできないわけではない
コミュニケーションが取れないわけではない
「懇親」ができないわけではない。相手との距離を詰められないわけではない。
テレワークは「テレワーク」という直接経験をしているのではないか
出社という直接経験とはまた異なる。
そもそも前提が違う、根本から概念が違うという発想で、ワークをデザインしないといけないと考えた。
テレワークだと脳の働きが、オフィスワークと異なるという話
じゃあオフィスワークはなんのためにするの?再定義した方がいいのでは?
個人的には、間接的経験をどれだけ積んで、直接経験に近づけても、直接に勝てることはない越えられない壁があると思う。アーカイブ配信なども同じで、その場を感じることはどうしてもできない。
アフォーダンスを感じとれる子どもたち、感じ取れない大人たち
子どもは環境をそのまま感じ取ることができている?
ex 遊具で本来のデザインされた使い方を無視して遊ぶ姿
それは私も日頃の生活の中で感じている。我ながらお金がかかって苦しいのだが、「感じ取れる自分」になるためには、場所を変えないといけない。
森の中に身を預ける
海をみながらぼーっとする
とにかく視界から文字情報を消さないと「感じ取れる自分」ならない。知覚するためのモードに入るのにコストがかかる。
アートは知覚。知覚とはなんだ。
音楽で考えると「鳥肌が立つ」ということはよくある。あれの正体は?感動とは?
自分が演奏する時は「狙い通り」「キマった」「キメが揃った」みたいな時。
キマると何が感動するのか?薬物的な表現になにか共通点を感じる
元々知っていた「ここを知覚できると最高に気持ちいいぞ!」という場所が、音楽でいうキメだとしたら、「知覚しにいっている」自分を感じる。
わ〜もうアフォーダンス何もわからんよ〜!そんなことを言っているうちに、残り3セッション。最終日が楽しみだなあ。