分断してる人達へ 〜大事なのは上位目的〜
相手方を批判し合うSNS。
自分もみて感情動かされることもあるが、発展的ではなくいかにも原始的。
文化や技術が発展し続けているのに、コミュニケーションは発展しないのか。
これぞ正にメディア・政治・教育の産物。
アップデートが必要なのだろう。
切り取って批判する。
これが当たり前になって来ているが
そもそも
所詮相手の全てなんてわかるわけない。
自分に見えてることは、その人の極々一部。自分のバイアス入ってる。
相手も組織の一員としての役割があるのかもしれない。
平然と批判する人は、そんなこと気にしていたら何も言えないと言いそうだが、だったら、よく知りもしないのに事故を起こすようなことを言わなければ良い。知る努力をすれば良いし、それが間に合わなかったのならば無知を恥じずに聞けば良い。それが例えテレビ番組の中であろうと。
謙虚とか素直とかそういう礼節的なものではなく、人と人とのコミュニケーションの初歩の初歩。
それが、できないのか。
あえて、しないのか。
その違いは大きい。
あくまで個人の客観的な考察だが、相手とコミュニケーションを取る上で初歩的なミスを生じさせない、その配慮ができない理由は、理性の欠如。
しない理由は、その先に上位目的があるからでしょう。
理性が欠如する理由は、プライドやプレッシャー、トラウマなどから来る被害的・防御的・攻撃的な思考が優位になるから。そして、そこに気づく機会をそれまでに持てなかったがゆえかと。(メンヘラとか言いたいのではなく、誰もが多かれ少なかれそういう心理は働くだろうという話し)
熱くなることも時には必要。けれども、やはりそこには理性がないと。
理性なき主張をする方々が、反論されると、徐々に法律とか規則とか、大きな器(つまり権力)を盾にして正義を振り翳す行動に移り変わって行くのを目にする。
ルールブックは印籠のように効果抜群と思いきや、実は自分ごととしては届かず、メッセージがぼやけてしまう。
負け犬の遠吠えのように聞こえてしまったり、お城に小石投げる程度の行動で終わり、何も変わらない。悔しさがより募り、負のループを産み対立構造は強まる。
法律や規則を盾に取るなら、なぜそれらのルールが出来たのかを考える、そちらに舵をとって欲しい。
そこに立ち戻って考えた時、批判したかった相手の別の側面が見えたり、上位目的が重なる、そう気づくこともあるだろう。
落とし合うのではなく高めあう。
そういうコミュニケーションを増やそうよ。
資格も肩書もただの飾り。
それをどう活かすか、その人間性が備わってこそ価値がある。
知識がどんどんアップデートされている今。
学歴や肩書に身を寄せたり、メディアがそこに頼るならば、それに恥じない理性と学び続ける姿勢を持たなくては、コミュニケーションの発展はない。
文化や技術は容赦なく変革を遂げているのに、コミュニケーションは発展しない。
小さな戦争を繰り広げる方達。
その上位目的はなんですか?