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近代短歌(3.2)与謝野晶子(1878-1942)

川ひとすぢ菜たね十里じゅうりの宵月夜母がうまれし国美しむ

川ひとすぢ菜たね十里の宵月夜母がうまれし国美しむ
『小扇』

【菜種】なたね
本来わたしたちが想像するような黄色い花は「菜の花」と呼ばれ、「アブラナ」は品種名、「菜種」は種子の名であるが、日常的にはあまり区別なく用いられている。「菜の花」などが春の季語だ。日本では一面の菜の花畑の数は減少しているらしいが、世界的に菜種油の生産量は増加している。キャノーラ油は菜種油から作られており、サラダ油も菜種油が含まれているものが多い。

菜畑に花見がほなる雀かな  芭蕉
菜の花や月は東に日は西に  蕪村
昼吠ゆる犬や菜種の花の奥  蓼太

カラー図説 日本大歳時記 春

【十里】じゅうり
一里は約3.9km、十里は39.2kmである。wikipediaによると、高さ160cmから見たときの地平線までの距離は約4.5kmらしい。そういえば信濃川の長さは(計測方法にもよるが)167kmということであった。地平線を超えて、川に沿って、どこまでも菜の花畑が広がっている光景をイメージしたい。地平線の先は見えないのだから、あくまで想像だ。

【宵月夜】よいづきよ
宵、つまり日が暮れて間もないころのみ月が出ている夜を指す。「夕月夜」とほとんど同じ意味の語で秋の季語だが、おそらく「夕月夜」より秋のイメージは弱いのではないか。ここでは春の宵の月と考えるのが自然だろう。



春曙抄しゅんしょしょうに伊勢をかさねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな

春曙抄に伊勢をかさねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな
『恋衣』

【春曙抄/伊勢】しゅんしょしょう/いせ
「春曙抄」とは『枕草子春曙抄』を指す。江戸時代に書かれたとされる『枕草子』(清少納言)の注釈書で、近代にわたるまで読まれたベストセラーであった。「伊勢」とは『伊勢物語』(作者不詳)を指すのだろう。
なお、『枕草子』は平安中期の1000年ごろに成立、『伊勢物語』は平安初期の900年ごろに成立したとされている。
この歌の深い意味があるのではなく、この歌が存在することによって、歌集の他の歌に奥行きが生まれると考えたほうがいいのかもしれない。



鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
『恋衣』

【鎌倉】かまくら
この歌の「鎌倉」は神奈川県の地域・地名だが、冬に雪でつくるかまど型のむろを「かまくら」という。これは冬の季語……ではなく、俳句では秋田県の小正月(1月15日)に行われる行事を指すため新年の季語になっている。この行事では子供たちが雪室をつくり、中に水神をまつる祭壇を設けると、敷物をしきコンロを置いて餅や甘酒を楽しんだ。夜になると大人が餅や賽銭を持ってお参りにくる。なお、いくつかの地域に似た行事があるようで、ここで述べたのは秋田県横手市のものである。現在は主に観光行事として行われているらしい。

かまくらのおき:炭火かこむ子等膝おくり 東京方言。席をつめる  福田蓼汀

カラー図説 日本大歳時記 新年

【御仏/釈迦牟尼】みほとけ/しゃかむに
これはいわゆる鎌倉大仏、つまり高徳院の阿弥陀如来坐像を指す。
そう、この大仏は釈迦牟尼ではなく阿弥陀如来なのだ。つまり間違っていることになるが、この歌は歌碑として大仏の近くに置かれている。この間違えについて、川端康成『山の音』では登場人物が「まちがひだから、歌も直したが、釈迦牟尼は、で通ってる歌で、いまさら弥陀仏はとか、大仏はとか言ふのでは、調子が悪いし、仏という字が重なる。しかし、かうした歌碑になると、やはりまちがひだな。」と語っている。これに対して、吉野秀雄は次のように言っている。

晶子自身後年このあやまりを指摘されてか、「仏なれども大仏は」と改作した短冊も現に残ってはいるが、これでは歌として三文の価値もない。原作のままでいいんだ、と。
この点をも少しいふと、第一、『新編鎌倉志』でも、『鎌倉攬勝考』でも、『新編相模風土記』でも何でもいいから、大仏の条に引かれた古文献を見るがいい。同じ大仏がルシャナとも、アミダとも、シャカとも唱へられ「吾妻鏡」の建長四年八月の大仏鋳造の記事だってアミダとはなく、「釈迦如来像」とあるのだ。
人差し指をまげるかまげないかの定印の区別など、まちがへたって年若かった晶子の恥ともいへず、一般大衆には何のかかはりもありはしない。〈中略〉
それにも増してシャカを「美男におはす」と断言したところに、読む人をおどろかし、よろこばせる原因のあったことはいふまでもない。

吉野秀雄全集3

この歌の面白さは、まず鎌倉の大仏を「美男」と表現したところにあるはずだ。与謝野晶子の数多くある恋の歌を踏まえると、恋愛対象に向けるような視線を尊崇の対象である仏像に向けたところに清新さがある(なお、釈迦牟尼は実在の男性であるゴータマ・シッダールタを指すわけだが……)。

【夏木立】なつこだち
「夏木立」は夏の季語になっている。何本もの木が群がって生い立つさまを表す。

いづこより礫うちけむ夏木立  蕪村

カラー図説 日本大歳時記 夏

「鎌倉」から「御仏」の顔、そして「夏木立」に視点が移動していく。旅で訪れたのだろうか。



ほととぎす治承寿永じしょうじゅえいのおん国母こくも三十にしてきょうよま尊敬

ほととぎす治承寿永のおん国母三十にして経よます寺
『恋衣』

【ほととぎす】
「時鳥」「不如帰」「子規」などと表記され夏の季語になっている。有名な「鳴かぬなら……ほととぎす」という歌からわかるように、その鳴き声を今か今かと待ちのぞむ感覚があった。「田長鳥」という別称は鳴き声によって田植えの時期の到来を感じたためと言われるが、「死出の田長」(死出山からきたほととぎす)と呼ばれるようになると暗いイメージが連想されるようになる。ほととぎすの鳴き声は姿を見せずに鳴くことから「忍び音」と呼ばれることがあり、ここに死のイメージか重なったのかもしれない。

子規ほととぎす鳴くや田植の尻の上  許六
うす墨を流した空や時鳥  一茶
ほととぎすすでに遺児めく二人子よ  石田波郷

カラー図説 日本大歳時記 夏

【治承寿永/国母/寺】じしょうじゅえい/くにも/てら
治承は平安末期1177-81年の年号、寿永は1182-84年の年号である。
国母とは皇后・皇太后を意味する。ここでは治承寿永の乱(通称源平合戦)に関わり、壇ノ浦の戦いで入水した平徳子を指す。
平徳子は平清盛の次女として1155年に生まれる。71年に高倉天皇の中宮となり、78年に安徳天皇を産むと建礼門院と称した。85年に壇ノ浦の戦いで入水するが命を救われ、同年に寂光院へ入寺して真如覚比丘尼を称するようになる。当時建礼門院は30歳だった。
この歌の「寺」とは寂光院のことである。


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