近代短歌(2.2)与謝野鉄幹(1873-1935)
大空の塵とはいかが思ふべき熱き涙のながるるものを
大空の塵とはいかが思ふべき熱き涙のながるるものを
(『相聞』)
【技法・内容】
二句切れ。三句目以降が倒置になっており、語順を戻せば「熱き涙のながるるものを大空の塵とはいかが思ふべき」となる。「いかが思ふべき」は反語、「ながるる」は自発。
「熱き涙のながるるもの」は語り手・一人称の私だろう。
無常観に襲われながらも熱い涙がこぼれる……行動に及んではいなくても、迸るような情熱が感じられる。
【空】そら
俳句では「夏(の)空」が夏の季語、「秋(の)空」が秋の季語になっている。雄大な夏空か、澄んで移ろう秋空か、この歌にはどちらの方が似合っているだろうか。
母蟹の腹より百の小き蟹匍ひ出づる如新しくあれ
母蟹の腹より百の小(ちさ)き蟹匍ひ出づる如新しくあれ『鴉と雨』
【蟹】かに
山川や磯にいる小さな「蟹」は夏の季語になっている。対して、「鱈場蟹」や「ずわい蟹」は冬の季語だ。なお、「松葉蟹」や「越前蟹」も冬の季語になっているが、これらはずわい蟹の水揚げ場所による別称である。
この歌の「母蟹」はどちらだろうか。俳句のルールに従えば、夏のサワガニといったものになるが。
【内容】
この歌の「新しく」を、蟹は出産する情景の珍しさではなく、「新たな命」として捉えてみたい。まさに今活動をはじめた命の新しさに驚き、新鮮な気持ちになったのではないだろうか。
詩集手に豆の葉ならす人ふたり紀伊の霞は和泉より濃き
詩集手に豆の葉ならす人ふたり紀伊の霞は和泉より濃き
【豆】まめ
「豆」自体は季語ではないが、多種の豆が、特に夏・秋の季語になっている。
夏:「豌豆」「蚕豆」「隠元豆」など
秋:「小豆」「枝豆」「大豆」など
【紀伊・和泉】きい・いずみ
紀伊は現在の和歌山県あたり、和泉は大阪の南西部を指す。大阪から和歌山へ向かう道中を詠んだ歌だろう。
【霞】かすみ
「霞」とは、水滴やちりが大気中に広がることで景色がぼやけることをいう。『福武国語辞典』はこの語義について、「古くは春秋ともに霞とも霧ともいったが、後世では、春にたつのを霞、秋にたつのを霧という」と書いている。
「初霞」は新年の季語になっている。新年の野原や山々にたなびく霞のことを指す。なお、『カラー図説 日本大歳時記 新年』には「実際に新暦の正月に霞が立つことは、気象条件として稀なことで、旧正月の季題としてふさわしい」と書かれている。
待つといはば母に具されし大寺の春の夕座もすべり出でまし
待つといはば母に具されし大寺の春の夕座もすべり出でまし
【具す】ぐす
「具す」は「一緒に行く,連れ添う,備わる」といった意味の語。この「具」は「具備、具足」などと同じ意味で使われている。
【夕座】ゆうざ
『例文 仏教語大辞典』には「夕方の講座。法華八講など、朝夕二度行う法会で、夕方行うもの。」とある。法会とは仏道を説くための集会のことだ。大きな寺の法会さえも、君が「待つ」と言うのなら抜けだして会いにいくというのだ。