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唐突なジャスティファイ!!!【読書記録:芥川龍之介「仙人」】

 中華風ファンタジー執筆にとりかかっているという事情から、相変わらず古代中国に関する文献を片っ端から収集している私である。
 以前、古代中国の時代考証の助けになる本に関して、noteで紹介したのだが(こちらを参照)、今回の本は仙人を題材にした小説だ。

 今、私が執筆を始めている小説の主人公が仙人なので、先達が仙人をどのように描いたのか知るべく、簡単に検索をかけてみた。すると、青空文庫にまさしく「仙人」をタイトルに関する小説が収録されていたのである。
 作者は短編小説の名手、芥川龍之介である。下記にリンクを記す。


 かんたんに筋をまとめてみる。
 鼠に芝居をさせる見世物師の李小二りしょうじが、天気の悪い日にみすぼらしい姿の道士と出会う。はじめは物乞いの道士だろうと思っていた李小二だったが、話しているうちに道士は、己が「ただの人間ではない」ことを語り出す。

 かんたんに、と言ったが、この小説自体が六〇〇〇字ほどの短いものなので、ほとんどこれが話の全てである。今すぐお手持ちのスマートフォンから読めるので、是非ご自分で確かめていただきたい。


 芥川龍之介の文章は、非常に美しい。
 私の拙い文学論をここでご披露するのもどうかと思うのだが、私は短編小説を書く上で重要なのは、緩急と取捨選択であると思っている。すなわち、細かく情景を描写する部分と、大胆に場面を切り替える部分、このバランスが、端的にして流麗な短編小説を生み出すと、私は考えている。

 「仙人」という小説はまさしく、このバランスに優れている。この小説で描かれているエッセンスをもとに、長編小説を書くことは可能だろう。しかし、短編小説だからこそ、最後の一文があっさりと、しかし仄かな余韻を残して、絶大な効果をあらわすのである。


 ……とまあ、門外漢があれこれ書き立てるのも恥を晒すばかりであるから、これくらいにしよう。本題は別にあるのだ。

 私はこの小説を読んでいて、とある一文に非常に驚かされ、また壮絶なおかしみを覚えた。その部分を以下に抜粋する。

道士は、顔を李と反対の方に向けて、雨にたたかれている廟外の枯柳こりゅうをながめながら、片手で、しきりに髪を掻いている。顔は見えないが、どうやら李の心もちを見透かして、相手にならずにいるらしい。そう思うと、多少不快な気がしたが、自分の同情の徹しないと云う不満の方が、それよりも大きいので、今度は話題を、今年の秋の蝗災こうさいへ持って行った。この地方の蒙った惨害の話から農家一般の困窮で、老人の窮状をジャスティファイしてやりたいと思ったのである。

芥川龍之介「仙人」(青空文庫より引用)

 さあ、いったいどの箇所が、私の琴線ならぬを刺激したのか、お判りいただけただろうか。答えは本記事の題名にある。
 やや古風な、しかし端正な言葉運びの文章を目で追っていた私は、唐突に我が網膜に映りし「ジャスティファイ」の語に、猛烈な違和感を覚え、また激しく笑わせられる羽目になったのである。

 そのおかしさといったら、幾度も自分で「ジャスティファイ……ジャスティファイ……!!」と呟きながら、数分間は悶え続け、まともに続きを読めなかった有様である。隣室の住人はさぞかし困惑したことだろう(私の家は壁の薄いぼろ借間なのである)。

 このジャスティファイの衝撃は、何と言って表せばいいのだろうか。それまで武家屋敷が続いていた道沿いに、唐突にメルヘンチックな風車が現れ、また粛々と武家屋敷が続いていくような――そんな「そぐわなさ」に、酷く狼狽し、笑い転げてしまったのである。

 ジャスティファイを邦訳するならば、正当性、といったところだろうか。別に日本語でも、何の問題もなかったはずだ。
 何だって唐突にカタカナ英語など使おうと思ったのか、芥川龍之介氏を小一時間問い詰めたいところだが、天寿を全うしてからのお楽しみにするほかない。今は大人しく、このおかしさを噛み締めるのみである。


 こんな妙なところだけ切り取って、「仙人」という小説のイメージを損ねてしまわないか心配なところではあるが、今回私の印象に強烈に焼き付いたのは、まさしくこの一言であった。
 英語の試験からとうに離れた身であるが、「ジャスティファイ」の用法だけは、今後間違えることはないだろう。

 実は、芥川龍之介が書いた「仙人」という題の小説は、青空文庫にあと2編収録されている。
 青空文庫の作品リストを下記に貼り付けておくので、興味のある方はご参照いただきたい。


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