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映画「ナポレオン」 時代錯誤的な非英雄像(酷評)
さて、リドリースコット監督の最新作ナポレオンを初日に見てまいりました。
感想を端的にいえば、2023年自分が劇場で見た中では一番駄作だと感じました、いや更にいうと金をかけたB級映画だなと言っていいと思います。
ロッテントマトの点数は別に信用しているわけではないんですが、批評家・一般観客共に記録的な低さを叩き出しています。
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批評家の短評を見ても首肯できる部分が多く、「リドリースコットの失敗作の典型、style(見栄え)はあるけど、substance(中身)は乏しい」「ナポレオンの歴史性とプライベートとのバランスが取れていない」「三時間近く見てもナポレオンが何者で、何がしたいのかが、動機が見えない」などは同意できるところであります。
さて、まずこの映画の企画的な特徴を簡単に2つあげてみます。そしてその特徴から導き出されるこの映画の大テーマは何かを策定していきましょう。
特徴① 英雄ナポレオンの軍事・政治など仕事における業績面より、最初の妻ジョゼフィーヌとの恋愛関係を多く見せる
特徴②恋愛面においても、英雄的ではなくジョゼフィーヌに翻弄され振り回されうまくいかない泥臭い情けない男
この2つの指針から導き出される大テーマはこのようなものです。
「英雄ナポレオン像ではなく、人間としての情けないナポレオンの苦悩やもがきの人生」
構造的にストーリーの根幹はこのようなものになるかと思います。
さて、具体的な話をする前に、一つ標があった方が便利かと思うので、比較として1970年公開の、イタリア・ソ連合作の「ワーテルロー」という映画を引き合いに出し、同時間軸のはずのエピソードにどういう違いがあるのかを見ていきます。
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ちなみに、この映画は興行的には苦戦しており、直近でナポレオンの映画化を企図していたスタンリー・キューブリックが敬遠する原因となった作品の一つとも言われています。が、この作品、見直すと結構よくできています。
監督のセルゲイ・ポンダルチュクはトルストイの「戦争と平和」(ナポレオン時代に近い時代設定)という大作歴史映画を過去に手がけている手練でもあり、他にもオーソン・ウェルズがルイ18世を快演している、CGなしで凄まじい数のエキストラを投入した大掛かりなものである、映画音楽史上三本指と言われる(坂本龍一の受け売りだけど)ニーノ・ロータが音楽を担当しているなど、結構気合の入った一本です。
そしてそのそのキューブリックが回避した作品にシナリオ面で非常に影響を受けているのが今回のリドスコのナポレオンなのです。
ポンダルチュク版と明確に違うシーン
さて、そのポンダルチュク版とリドスコ版でまず最も違いが顕著だと感じるのはエルザ島の別れのシーンです。
ナポレオンはロシア戦線での負け越しから、エルザ島へ島流しになりますが、そのシーンでポンダルチュク版では、彼が近衛兵たちに対して惜別の挨拶をします。
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「私たちは20年間共に過ごした」から始まり、兵士たちを「マイソルジャーズ(私の兵士たち)・マイサンズ(私の息子たち)、グッドバイ(さようなら)」と絶叫してナポレオンは泣き崩れます。
非常に胸熱シーンに描かれており、兵士たちも感涙。
このシーンがあるからこそ、のちにエルザ島から脱出し100日天下で再起を図る際に、ルイ18世の家来となっていた兵士たちが次々と「あなたを待っていたんだ」とナポレオンに降ります。
つまり、兵士たちにとってナポレオン将軍はどんな存在であったのかのイメージを描いているわけです。
一方で、リドスコ版。なんとこのシーンは全てカット。
他にも、例えばナイルの海戦、トラファルガーの海戦などでナポレオンを破った終生のライバル、イギリス海軍の神ネルソン提督は、ネの字も出てきません。
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ライバルが出てこないという意味では、言って終えば明日のジョーの実写映画で力石徹が存在すらしない扱いをされていると言っても過言ではないと思う。
この事からも、軍人ナポレオンの軍事的な側面、そして味方兵士から、敵国のライバルからどのような存在として見られていたのか、というパブリックイメージは全て省略されており、仕事上どんな人間だったかはリドスコ版ではほとんどわかりません。
政治家・皇帝としてのナポレオン
もちろんナポレオンは軍事の天才であっただけではありません。たった一代でローマ法王公認の皇帝、つまり「平民からいきなり皇族にランクアップ」した男です。
フランス革命の歴史的な流れについて、改めて詳細に説明するのは誌面の都合もあり(めんどくさいから)かなり簡易化しますが、
まずルイ14世らブルボン家が支配していたブルジョワ王権時代。ここで重税や政治的な腐敗で、民衆は貧困と搾取に苦しみ、民衆が立ち上がってジャコバン派を中心とした市民革命によりロベス・ピエールが台頭。フランスが悪いのは貴族どものせいだと彼らを理由の如何にかかわらず徹底的にギロチンにかけて処刑していきます。これが共和制時代。しかし、案の定革命はできてもエスタブリッシュメントは出来ず、政情は極めて不安定で独裁的な空気となっていく。
そこで出てきたのがナポレオンであり、口先だけの革命戦士たちと違って、彼は「結果」でリーダーとはどういうものかを次々に示していった。いくら愛や平和や平等や権利を謳おうが、実績で示せなければ意味がない。
ナポレオンは次々と外国勢力を薙ぎ倒し、実績で人々を魅了していった。そして王党派、共和派に続く第3として帝政派(ボナパルティスト)という信仰者を生み出していったわけですね。
まあつまり、こうした社会の激動の流れの中で、ボナパルティストにとっていかにナポレオンが心の拠り所でありヒーローであったのか、そういう政治的な側面においてもリドスコ版ではほぼ窺い知ることが難しくなっています。
ただし、省略そのものは悪ではない
以上は歴史についてある程度わかっている人間が考える部分だと思いますが、それらをバッサリ省略すること自体を悪だとは私は思いません。むしろ「そこで空いたスペースに代わりにどんなご馳走を入れてくれるのか」
それこそが重要であり、クリエイティビティなわけであり、
別に歴史を知らなくたって映画館に行けば感動して楽しめるんだ、これが映画の醍醐味なわけです。
ですから歴史を省略して、ここからの手腕が重要です。
ところが・・
このスペースに入れているロマンスエピソードが1ミリも面白くない。
このラブロマンスをかいつまんでお話しすると、
①ジャコバン派の圧政により苦しんだゆえに、何とか処世術として出世頭のナポレオンを誘惑して玉の輿でしぶとく生き抜こうとするジョゼフィーヌ。
②そんな女の本心に全く気づかず、ただただ片思いで結婚したナポレオン。
③案の定金づるとして利用され、結婚後一瞬で浮気。「俺は英雄なのになんでこんなに振り回されなきゃならんの」とプライドずたずたのナポレオン。
④しかし年が経つにつれていつしか二人は本物の夫婦へと心を通わせていく。
⑤ところが皇族となったナポレオンには世継ぎ問題が死活問題。不妊症のジョゼフィーヌとの愛は、皇室であるがゆえに諦めざるを得なくなるという悲恋に。
上記のような流れになっています。なんだか正直昼ドラ並みにベタベタですよね。
こうした形自体がちょっと古臭いなとおもうような筋書きですが、問題はここではない。別にオーセンティックな恋愛の類型でもそこに巨匠の審美眼が加われば輝く。
ところがうまく演出出来ているかがすっごく微妙なところなのです。
その具体的な象徴となるのが、ベッドシーン。
ジョゼフィーヌがマグロ状態でナポレオンがバックからぱんぱんぱんぱんやる情けないシーンをとにかくしつこく入れてくる。
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これは自分の推測ですが、軍人ナポレオンといえば、敵の陣形を極めてうまく誘導する天才で、アウステルリッツなどでも「右手で受けて、左手で刺す」などと研究者から評されている。
相手の陣形を動的に読み切り、散兵でうまく陽動を行い、相手の要所を背後から急襲、誘き寄せた敵を大砲で一斉に処理。
その戦争をまるで上空から一人だけ見通してるかのような眼力が英雄ナポレオンの圧倒的な強さの一つでしたが、おそらくその英雄像を否定し、
「嫁を背後から急襲し大砲をぶちこむおっさんナポレオン」というジョークになっている。
リドスコ本人は、これめちゃくちゃ面白い!と思ってはしゃいでしつこくやっている、のだと思います・・・・・・・。。。。(白目)
歴史的な経緯をすっ飛ばして、入れたのが「下ネタギャグ」だった
別に「英雄像から人間臭い歴史的人物を描く」という方向性自体はいいと思いますよ。
例えば直近で言えば、北野武監督の「首」における織田信長、荒木道重、明智光秀、そして秀吉などは全員新解釈で新しい歴史像を提示できていましたよね。しかも、それらがきちんと歴史イベントとロジックで整合性が取れており、さすが理系出身だけあってロジックがしっかりしている。
ところがこっちときたら、
「エロシーンではあはあ言ってるのを入れれば、英雄ではなくて人間臭い一面が表現できるだろう」 創造性0の発想
極めて低レベルな発想、低い創造性で正直ロジックとかカッコつけて言えるレベルではない。百歩譲ってキューブリックの時代であれば、人間の土着性やドロドロした部分を土臭いエロチシズムによって表現するというのは一定の説得力があったように思えるが、まだその昭和時代の発想のまま時間が止まっているのか、と正直愕然としてしまう。
時代はすでにAIの時代、追試をろくにクリアできないような文系の感覚頼りの論理や占いレベルの心理学はもう通用せず、データサイエンスと裏のしっかり取れた情報ソースが何よりも重視される時代へと世界は入っています。それなのに・・
「アイドルだってうん◯をする」レベルのことを何億ドルもかけて言おうとすなよ。
正直私にはそう見えましたし、その発想自体が極めて古い感性だなと思えて仕方がなかったなあというのが正直なところです。
とはいえ私はリドスコファンを自認している身でもあります。グラディエーターの続編、そしてエイリアンの前日譚リブートシリーズを早く完成してください。もう86歳なんですから。