【第7回】How They Became GARO―“ガロ”以前の“ガロ”と、1960年代の音楽少年たち―〈ヘアーの章 / 2〉
◎文:高木龍太 / TAKAGI, ryuta
■パリから、渋谷へ――『ヘアー』東京公演の幕あけ
海を越えてやって来た『ヘアー』――。
その存在は、それが未知の“ロック”・ミュージカルであり、あるいは当時人気絶頂のタイガースを脱退したばかりの加橋かつみが主演であるということもあってか、日本公演が近づくうちに、次第に世間でも大きな話題となっていた。
当時の雑誌などを手に取れば、一般大衆向けの週刊誌から、音楽誌、演劇誌、少女雑誌、ファッション誌、各新聞、ほか至る所で、『ヘアー』についての記述を数多く見つけることができるだろう。
当時の若者像のひとつとしての興味を持たれてか、グラフ誌、カメラ雑誌などでは『ヘアー』キャストが被写体として取り上げられることもしばしばあった。
さらにプロモーションの一環として、いくつかのテレビ出演もあった。
中でも注目を集めたのが、当時、黛敏郎が司会を務め、人気を博していた音楽番組、『題名のない音楽会』への出演である。
都内ホールにて公開収録され、69年11月14日にNETテレビにてオンエアされたこの番組には、当時アメリカ以外の『ヘアー』公演を取り仕切っていたフランス人プロデューサーのベルトラン・キャステリ(Bertrand Castelli)、そして加橋かつみをはじめとする日本版『ヘアー』のキャストたちがそろって登場。
収録には堀内・大野もキャストの一員として参加し(取材時の堀内・大野による証言)、出演者全員でのミュージカル主題曲「アクエリアス」の合唱にも加わっている。
そしてそんな中でいよいよ『ヘアー』東京公演が、12 月 5 日から渋谷の東横劇場で始まる(5 日~7 日はプレス向けのプレビュー)。基本的に昼・夜、ダブル・キャストが交互に演じるという 一日2 回公演である。
ドラムの石川晶。ベースの江藤勲。ギターの杉本喜代志、水谷公生(元アウト・キャスト、元アダムス)。キーボードの柳田ヒロ(この時の名義は柳田博義。元フローラル、元エイプリル・フール)――。
そんな当時のジャズ、ロックの腕利きミュージシャンによる、特別編成の生バンド〈ゲンチャーズ〉をバックに演じられるこのミュージカルは、メイン・キャストであった“クロード”役の加橋かつみ、すでに前年、西ドイツでの『ヘアー(Haare)』でやはり主役級の“バーガー”役を演じた実績があった寺田稔、それに5名のアメリカ人キャストたちを除けば、みなオーディションで選ばれた者ばかりだった(寺田は日本公演でもバーガー役に抜擢)。
この『ヘアー』日本公演を推進し、大きく携わった若者が、ふたりいる。
主演の加橋かつみと、専任プロデューサーであった川添象郎だ。
そもそもこのミュージカルは、当時の自身に求められたアイドル像ではなく、ひとりのアーティストとしての独立を望んだ加橋がタイガースを飛び出して渡仏し、象郎のプロデュースで初のソロ・アルバムをレコーディングしていた折、彼らふたりがパリで出会い、象郎が日本に持ち込むことを決めたものだった。
この時、1947年生まれの加橋は21歳。1941年生まれの象郎も28歳であり、ショービジネスの世界ではまだまだ若手と言える年齢だったはずである。
加橋と象郎は、この公演の劇中で日本語で歌われることになった歌詞の翻訳作業も、共同で手掛けている。
川添象郎という人物の生い立ち、そして彼の後年の音楽、舞台ほか、多岐に渡るプロデュース・ワーク、プランニングの業績や、あるいは若き日の単身渡米してのニューヨークなどでの修業時代、才あるフラメンコ・ギタリストとしての顔、洋の東西を問わない多方面での交流などの濃密なエピソードの数々については、2022年に出版された彼自身による回想録『象の記憶』(DU BOOKS)に詳しい。
その『象の記憶』には、音楽プロデュースに限っても、ルネ・シマールの発掘や、ブレッカー・ブラザーズら参加の深町純『オン・ザ・ムーヴ』、そしてYMOの世界進出などに携わり、国際派としての手腕を発揮する象郎の姿が描かれているが、同著で彼はまた、それらのエピソードと同様に『ヘアー』のエピソードについても、かなりのページを割いて振り返っている。
そこから伝わってくること――、つまりそれは、おそらくは彼自身にとっても、その後のキャリアへの流れを左右するような、極めて”大きな出会い”となったのが、この『ヘアー』に関連する一連の出来事だったであろう、ということである。
そこに至る ”流れ”を、少しだけ辿ってみよう。
この『ヘアー』の招聘元(松竹と共同で)となったのは、〈アスカ・プロダクション〉。通称アスカ・プロ、という小規模なプロダクションだ。
六本木・飯倉片町にオフィスを構えたこのアスカ・プロは、元々、文化交流プロデューサーであり、1960年代、多くの文化人、ミュージシャンなどが集ったという飯倉のレストラン《キャンティ》創設者として知られる象郎の父、川添浩史が1963年に設立したものだった。
象郎はそのアスカ・プロの運営に、帰国を経ての1965年から携わるようになっていた※。
このアスカ・プロについては、触れられた文献、証言が極めて少なく、後追いの人間を悩ませる。『象の記憶』にもなぜか、記述は一切ない。
いくつかの資料を読む限りでは、元々は浩史のプロデューサーとしての仕事の足場としてその活動がスタートしていたようであり、その初期には主に映画、演劇の制作を手掛けていたプロダクションだったようである。
だが、当時のレコード・ジャケットや、雑誌記事などをもしも注意深く追って行ったなら、象郎が携わるようになったとされる1960年代半ば以降は、その友人のひとりでもあり、キャンティの常連のひとりでもあったミッキー・カーチスが組んだ〈サムライズ〉、あるいはミッキーが見出したという〈ハプニングス・フォー〉など、当時のGSブームの中にあって先鋭的な雰囲気を持ったバンドたちの連絡先としてもその名を見ることができるようになることに気付くだろう。
そして、彼らのマネージメント、あるいはエージェント的な業務をも担っていた、と思しき様子も窺えてくるのである。
前項で述べた、フィリピン出身のデ・スーナーズも、アスカ・プロに連絡先を置いていたバンドのひとつだ。さらに書き添えるなら、日高が入会していたという、彼らのファンクラブが置かれていたのも、じつは、このアスカ・プロだった。
また、この頃、川添家が携わっていたというビジネスには、キャンティ、アスカ・プロのほか、六本木のディスコ『ザ・スピード』の経営があったが、その出演バンドには、このスーナーズや、柳田ヒロらのフローラル(エイプリル・フール)などがいたといわれる。
先にも述べたように、証言等の少なさもあり、それらすべてが象郎自身の手によるワークスだったのかについての詳細は、はっきりとは掴めていない。
だが、少なくとも、後年“1968年の東京で誰よりも欧米の音楽、アート、ファッション、エンターティンメント、フォトグラフィーに関して、生のグローバルネットワークを持っていた”※――と評された彼の周辺に、そうした先鋭性を持った、そして“ポップ・ミュージック”に関わる人々とのコネクションが存在していたことは、たしかなことだったのではないだろうか。
事実、当時フィリップス・レコードのプロデューサーだった本城和治は、スーナーズの同社からの日本デビューのきっかけが、まさに象郎からの紹介によるものだったことを後年、自筆のエッセイ※のなかで明かしている。
川添象郎という人物の周辺には、1960年代半ばまでに、こんな“流れ”が存在していた。
そしてそんな“流れ”を経て、象郎は音楽プロデュースの世界へ本格的な関わりを始めることになるのだ。
その端緒となったとされる出来事こそが、先に述べた加橋のソロ・デビューのバック・アップ、そして、同作の仏バークレー・レコードに赴いてのレコーディング作業だった。
この時、象郎は父の友人であったというバークレー社主、エディ・バークレーとの縁から同レーベルの日本展開に、その中心として携わることになっており、加橋のレコーディングも、その一環として行われていたのである。
余談ながら、この渡仏時、象郎が仏バークレー社の新人の中から見出し、日本で売り出して成功へ導いたというのが、「オー・シャンゼリゼ」で知られるダニエル・ビダルだ。
そして、そんなさなか、ちょうど現地で行われていたという『ヘアー』パリ公演のリハーサルを、象郎と加橋が偶然にも見学する機会を得た、というのが、この日本公演の話の、すべての始まりだったのである。
当時の日本のロック、ポップス・フィールドとしてはまだ珍しい海外レコーディング作品だった加橋かつみのファースト・ソロ・アルバム『パリ1969』は、後日、まさに日本版『ヘアー』公演中の、69年12月にフィリップス・レコードから発売された。
アルバムには、象郎の友人でもある村井邦彦、かまやつひろしの提供曲、加橋によるオリジナルなどが収められていた。
パリらしい優美さ、そしてフラワー・ムーヴメント時代の刺激的な薫りがスパイスとなったオーケストレーションが加橋の透明感あふれる歌声を包む、この優れたポップ・アルバムに耳を傾けると、異国の地に立ち、未知の世界への一歩に胸を膨らませる二十歳そこそこの若者の、等身大の姿が浮かびあがってくるような気がする。
加橋、あるいは象郎にとって『ヘアー』への挑戦もまた、そうした“冒険”の流れのなかにあったのかもしれない。
加橋かつみ、川添象郎――。
何かが変わろうとしていた“1969年”という年。日本版『ヘアー』は、こんなふたりによって、“パリの空気”を経由し、運ばれて来たのである。
■日本版『ヘアー』を動かした人々
そんな日本版『ヘアー』に関わったのは、どんな面々だったのだろうか。
ここに一冊の資料がある。『ヘアー』上演に際して作られた、やや大判の豪華なパンフレットだ。
このパンフには、作品概要とスタッフ、キャストが紹介されていた。
一説によれば舞台を見ない者でも会場外でこのパンフレットのみを購入することもできたという話もあり、実際、古書市場にもしばしば出回るのを見ると、話題性ゆえに、それなりの数が売れていたのではないだろうか。
中身をのぞきながら、日本側キャストを中心に、関わった面々についても少し、触れてみることにしよう。
中ほどにある見開きに目をやれば、そこには大野や堀内を含むキャストたちの写真が個別に紹介されている。ヒッピー、フラワー・チルドレン的なロング・ヘアーの若者たちの姿が、そこには見つけられるだろう。
すでにロック・ミュージカル劇団での活動があった大野だけでなく、堀内の風貌も同様で、クリーンな髪型だったエンジェルス当時からすれば、大きな変化だ。
大野は本名の大野真澄のままの出演だったが、堀内はここでは愛称の“マーク”をアレンジした、“堀内麻九(ほりうちまあく)”、という芸名を名乗っている。
大野と堀内は、先に触れたように同じ“ウーフ”役としてクレジットされている。ただし、これは上演直前で変更となった。
なぜなら演出側の急な判断で、堀内はウーフ役ではなく、劇中歌の歌唱と群舞に徹することになったからである。ウーフ役はそのため、実際には大野が公演開始から期間の途中までひとりで演じることになる※。
出演者には、“ロック”・ミュージカルであるだけに、それまで役者経験のない音楽畑の者も多かった。
たとえば、柳田ヒロと同様、フローラルというGSから、ニューロックのエイプリル・フールで活躍した小坂忠。カーナビーツの2代目ヴォーカリストであったポール岡田(当時は岡田ポールの表記)。フィンガーズの後期ヴォーカルだったクロード芹沢(加橋とダブル・キャストでクロード役)。
いずみたく門下のソロ歌手であった高田真理(のちに青い三角定規へ)。グローリーズというバンド出身で、のちにファーラウト、ファー・イースト・ファミリー・バンドを結成する宮下富実夫(宮下文夫)などである。
ポール岡田は公演終盤にさしかかった頃、大野と共に、堀内に代わるもうひとりのウーフ役を務めることにもなった。
不思議な縁というべきか、堀内とはディメンションズ時代の仲間でもあったシー・ユー・チェンも、フィンガーズでの活動、この年7月の解散を経て、このミュージカルにやはり携わっていた。
シー・ユーはパンフレットの出演者リストには役名を持たないキャストのひとりとしてクレジットされているが、実際は一方で演奏メンバーにも加わったり、演出助手も務めるなど、一人三役の活躍だったそうである。
フィンガーズといえば、パンフレットに記載はないが、そもそもオーディションのときに応募者たちの歌のバック演奏を務めていたのも、このバンドの出身者や、関係者だった。ギターを弾いた高橋信之と、それにドラムの高橋幸宏の兄弟である。幸宏はフィンガーズのメンバーではないが、ヘルプで演奏に加わったことがあった。
彼らはのちにガロとの関わりを深めるが、その最初の邂逅※も、じつはこの『ヘアー』だった。
さらに出演者リストを目で追えば、“本場”の匂いを交えようとしたのだろうか。赤坂 MUGEN で活躍した R&B バンド〈ハウス・ロッカーズ〉のメンバーだったシンガー、チェット・フォーチュン(チェスター・フォーチュン)など、アメリカ人キャストの参加も目を引く。
当時、米軍基地に駐留していた黒人たちで構成されていたというハウス・ロッカーズは、その当時 R&B に関心を持つ者にとって、間近に見て、そのフィーリングを感じられる、貴重な存在だった。やはり MUGEN に出ていたデ・スーナーズと同様、当時の GS への影響も大きいとされるバンドだ。
大野とはセツ・モード・セミナーからの付き合いであり、同じくキッドの団員でもあった深水龍作は、寺田とダブル・キャストでバーガー役を演じた。
深水と大野の親交はガロ時代を経て、それ以降まで続き、のちにロック・ミュージカル劇団〈ミスター・スリム・カンパニー〉を深水が率いた際には、大野が音楽監督として関わることにもなる。
やはり大野のセツ時代の仲間であった増田光子も、この公演に参加していたひとりだ。のちに彼女はガロのアルバム『GARO3』でアートワークを手掛けることにもなる。
当時はまだ学生だった安藤和津(萩かづこ)、のちにゴダイゴのコーラスで活躍する坂本めぐみ(東京公演後に『ヘアー』ベルギー、パリ公演にも参加)、のちにコピーライター、作詞家として活躍することになる、当時17歳の相良好章なども、このミュージカルに出演していた。
主役級の“シェイラ”を演じたひとりである松本洋子は、モデルからのちにスタイリスト、実業家としても活躍した。
公演を支えたアスカ・プロダクションのスタッフの中には、のちにゴダイゴを手掛けることになるジョニー野村(野村威温)、奈良橋陽子(ただし公演開始前に渡米で離脱、パンフには記載なし)のふたりや、小坂忠夫人となり、のちTORAミュージック代表となった、高叡華(高エイカと記載)などもいた。
そしてその中心にいたのが、川添象郎だった。
先に述べた通り、六本木スピードに出演のあったエイプリル・フールや、あるいはフィンガーズのメンバーなどは、それ以前から象郎とは面識もあった。
つまり、おそらくはもとよりあったであろう象郎の周辺人脈に、『ヘアー』という存在が交差点のようになって、こんな若者たちが、集っていたわけである。
オリジナルのニューヨークでのキャストの多くがそうであったように、日本版『ヘアー』のスタッフもキャストも、興行面に携わった松竹などの一部の人間※を除けば、若い世代がやはり求心力となっていた。
海外からやって来た演出家、ジム・シャーマンも当時24歳と若かった。ジムはのちに『ロッキー・ホラー・ショー』を手掛ける。
ここまでに名を挙げたなかで最年長だったのはプロデュースを手掛けた象郎と、主演のひとりである寺田だったが、彼らも開幕時は28歳。日本人キャストは、10代から20代前半の者たちがほとんどだった。
――これがすべてのキャスト、スタッフの名ではないが、こうした面々が、“日本版『ヘアー』”だったのである。
■1969『ヘアー』東横劇場――その反響
公演まで 1 か月強というわずかなリハーサル期間を経て、演技や踊りの“プロ”ではない、いわば門外漢の若者たちが舞台に上がった、そんな日本版『ヘアー』の評価は、当時の新聞・雑誌を眺めると、厳しい論調も多く目につく。
原語版のほぼ直訳の台本であったことから、徴兵制のない日本の状況との乖離を疑問視する声もあった。
また『ヘアー』には出演者が劇中全裸になる場面があったということで、そうした部分が興味本位で報じられ、妙にクローズ・アップされてしまった節もあったように感じられる(実際には、それは暗く照明を落とした中での一瞬の場面であり、いくつかの証言によれば客席からは“シルエットのように見えただけ”、だったという)。
先に触れた世間での大きな話題というのも、そうした好奇な視線を交えてのものがやはり、かなりの部分を占めていたようだ。
一方で音楽畑からは、当時『ニューミュージック・マガジン』誌の若手編集スタッフであった小倉エージによる<不満なところもたくさんあったけど、「アクェリアス(註:原文ママ)」や「サンシャイン・イン」は素晴しかった。生の迫力がこれらの持つ歌の意味をもっとあきらかにしてくれたような気がする。自由劇場で聞いたロックよりも、ぐんぐん僕に入ってきたのはどうしてだろう>(同誌70年3月号)という言葉もあった。
あるいは『ミュージック・ライフ』誌 70 年 5 月号では、後述するスタジオ録音 LP のレビュー※においての、バック・バンドのミュージシャンによる音楽面の水準、出来を高く評価する声も見つけられる。
しかし上のふたつの原稿は別とすれば、否定、肯定、どちらにしても、多くの誌面を賑わせていたそれらの評のほとんどは、やはり当時の年長者たちの立場によるものであったように見える。
年長の擁護派のひとりでもあり、自身が演劇人でもあった演劇評論家、白浜研一郎※(キッドや寺山修司とも面識があったようだ)が『ポップス』誌に寄せた原稿(70年3月号)によれば、東横劇場での公演では当初、入場料の高さから、何人かの高校生たちのグループが“「ヘアー」はほんとうに観たがっている若い人たちの要求に応じていない”、という抗議の声を場外で上げたこともあったという。
GS時代、都内のジャズ喫茶の入場料というのは当時のスケジュール表などを見る限り、1ドリンクを含めても500円もしない金額だった。
対して『ヘアー』東横劇場のチケットは、S席3000円、A席2500円、B席2000円、最安のC席で1000円。もしその高校生グループがGSの流れから足を運んだファンだったとすれば、この観劇料金は頭抜けて高額と感じられて当然だったかもしれない※。
それでも先の白浜の原稿を読む限りでも、初見時には女子高生などが客層として多かったともあり、また期間後半に再訪した際には客席には会社員、OLなどと思われる若い男女の姿が多く見られた様子も窺える。
であるとすれば、『ヘアー』を観た若い世代の、当時の反応はどうだったのだろうか。
たとえば後年の発言では〈頭脳警察〉を結成直前だったというPANTAが、東横劇場での『ヘアー』を見、刺激を受けたことを述べているが――。
舞台に上がった“トライブ”(部族の意。他国の公演も含め、『ヘアー』ではキャストのことをこう呼んだ)たちもスタッフも、若い世代が中心であったのだから、彼らと同じ世代がそこになにを見たのか、どう感じたのか。
それが仮に一般に他愛のないとされるような意見であったとしても、同時代の言葉として、あの時にもっと、各誌面ではスポットを当てられていても良かったような気がしてしまうのだ。
■突然の終焉、残された一枚のレコード
東横劇場での公演は年を越し、2月25日までの約三ケ月の間続いた。途中波はあったようだが観客動員数も概ね悪くはなかった、と伝えられる。当時の記録には、期間中には11万人という数を動員したことが記されている※。
東横劇場は渋谷駅のハチ公口に隣接した東急百貨店東横店・西館(新型コロナウイルス禍中、緊急事態宣言直前の2020 年 3 月末日に閉館)の最上階にあったが、期間中、建物の表には『ヘアー』上演を喧伝する大きな垂れ幕も下げられていたという。
長期にわたるため、演奏メンバーは後半、リズム隊に入れ替わりがあり、当時スタジオ・ミュージシャンとして多忙だった石川、江藤に替わってドラムには川添とも縁のあったスーナーズのエディ・フォルトゥノが、またベースには、ギターの水谷とはGS、アダムスで同僚だった千原秀明(のちに武部秀明)が新たに参加。
東横劇場の後は 3 月 1 日から 29 日までの日程で大阪・道頓堀にあった朝日座※での開催が決定、さらに 4 月上旬には京都・南座と、関西でも続けざまに公演が行われる予定になっていた。
すでに朝日座の正面口には、大きな「HAIR」の看板が飾り付けられていた。一説に1万5千枚の前売り切符が売れ、公演パンフレットも用意されていた。トライブたちにしても、誰もが東京公演を続けながら、来る次のステージのことを考えていたに違いない。
だが、東横劇場での公演終了の翌日である 1970 年 2 月 26 日。大きな事件が起こる。
その日、メディアが報じたのは、出演者および関係者数名の、大麻取締法違反による逮捕の報――。
これを受けて、以降に予定されていた関西公演は「中止」という判断が下される。突然の終焉だった。※
誰しもが“若かった”、ということになるのだろうか。日本版ヘアーは、こうしてまさに、“幻”のミュージカルとなってしまったのだ。
突然の出来事に、トライブたちも、それぞれに身を振らざるを得なくなったのである。
しかし、そうしたなかで差し込んだ、淡い“陽の光”もあった。
公演中止から 1 か月ほどを経た 70 年 4 月※、こうした騒動があったにも関わらず、RCA ビクターから、一枚のレコードがリリースされたことである。
それは、『ヘアー』劇中歌を収めた、日本独自のスタジオ録音アルバム『ヘアー/日本オリジナル・キャスト盤』(SRA-5168/別番号のUS プレス盤も存在する)だった。
楽曲を日本語に翻訳し、舞台と同じく石川晶らが演奏を務め、そして日本版の出演者が歌ったものである。
レコーディングが行われた時期については、出演者だったポール岡田の後年の回想や、当時の週刊誌記事などには69年年末、あるいは70年初頭あたりの公演オフ日だったことを匂わす記述も見つけられる。ただ、他方、異説も聞こえ、はっきりしたことはよくわからない。
ともあれ、舞台で歌われた楽曲の中から21曲(一部はメドレー)が選ばれ、主演を務めた加橋かつみ、クロード芹沢、寺田稔、深水龍作をはじめ、トライブのうちの数人が数曲ずつソロをとったものが録音された。そして、それがレコードという形に、留められたのである。
カヴァーであるだけに楽曲の良さは当然だが、先に挙げた当時の音楽誌での反応にもあったように、アレンジや演奏には(時に幾分テンポが速められていることもあるが)ブロードウェイ・キャスト盤や、同時期に各国でリリースされたキャスト盤にも劣らない躍動感があり、そして日本語で歌われるその歌唱は、言葉がストレートに届くだけに、今日でも意外なほどの新鮮さがあるように感じられる。
そして、これはガロについて知る上でも重要な一枚だ。
なぜなら、そのうちの一曲である「人のすべて(What a Piece of Work Is Man)」では堀内護(クレジットは『ヘアー』出演時と同様の“堀内麻九”)がヴォーカルとして大きくフィーチャーされており、また、大野真澄の歌声も、トライブ複数人で歌われた「僕は黒い~何もない(I'm Black / Ain't Got No)」という曲の中に、活き活きと刻まれているからである。
「人のすべて」はチェット・フォーチュンとのデュエットとして歌われた、ゴスペル・タッチのバラード曲だが、ここで聴ける堀内のその歌唱は、『ヘアー』の熱気も手伝ってか、かなりロックというか、エモーショナルなフィーリングを湛えたものだ。MUGENのステージで鳴らしたチェットのヴォーカルに、堀内はひたむきな歌で向かい合っている。
かつて堀内本人にこのレコーディングのことを訊ねた際の返答は“まだ歌というものに慣れていない時期のもの”だと、自身では気に入っていないというような、複雑そうな表情だったが、個人的には不思議な輝きのある録音と思う。
たしかに技術的なことを言えば、堀内に限らず、トライブの多くがレコーディングには不慣れであったであろうこのアルバムの歌唱には、難のある点も多々あるのかもしれない。
しかし、なにか見えないもの、未来をつかもうとしているような・・・、「人のすべて」に関していえば、ブロードウェイ・キャスト版のある種、牧歌的な仕上がりと比べても、ざらっとしたその感覚が、より“ヘアー的なサムシング”を感じさせる気がする。
また、ハイトーンで振り絞ったその歌声を聴くと、盟友・日高と彼の間に声質が相似する部分があることにもあらためて気づかされる気もする。
いずれにしても、このソロ・ヴォーカルの経験は、以降のアーティストとしての堀内にとって、ある種の“起点”となったのではないだろうか。
一方で「僕は黒い~何もない(I'm Black / Ain't Got No)」はアップテンポで R&B テイストの 2 曲のメドレーだが、大野はこの中で、短いものの、劇中演じた“ウーフ”になりきり、愛嬌のある歌声を、表情豊かに聴かせている。それはやはり、彼がキッド兄弟商会出身という、通常のミュージシャンとは少し異なった下地をすでに持っていたからこその賜物であったのかもしれない。
こうした一種、シアトリカルとでもいうような大野の素養というのは、ガロのアルバム、たとえば『サーカス』や『吟遊詩人』などでは彼が「深夜映画」のような“ストーリー性のある楽曲”での歌唱を担うことが多かったこと(考えてみれば『サーカス』『吟遊詩人』は、それ自体が非常にミュージカル的な作品だ)や、ひいてはシングルでの彼の持ち曲――たとえば著名な「学生街の喫茶店」、後期の「一本の煙草」などにおいても、どこか“表情の豊かさ”が感じ取れるように、以降の彼の歌唱における“個性”として、活かされて行ったように感じられる。
ちなみに「僕は黒い」のパートでは、ウーフのキャラクターを色で表した“僕はピンク”というフレーズが、そして「何もない」のパートでは、“家がない・・”から、“品がない・・”に至る部分の歌唱が、大野によるものだ。
そして、堀内や大野の単独の歌唱ではないものの、この LP では、もうひとつ、出演者の合唱で歌われた「グッド・モーニング・スターシャイン(Good Morning Starshine)」という曲も、ガロにとっては縁の深い一曲だ。
時代の空気をたっぷりと含んだような、チャーミングな、フラワーなソフトロックであるこの曲は、のちに同じ日本語詞(公演プロデューサーの川添によるもの)でガロのセカンド・アルバムでカヴァーされることになるのだが、それは、メンバー総意のセレクトによるものだったという。そこからは、ガロの 3 人にとっての『ヘアー』が、やはり時を経ても忘れてしまうことはできない、大きな存在であった様子が窺える。
個人的には、ストレートに反戦のメッセージを並べ立てるわけでなく、人によっては絵空事のようにも見えるかもしれない、そんな美しい夜明けの光景で“愛や平和”を感じさせるこの曲の歌詞は、その後のガロの、特に初期の詩作にも通じるもののようにも感じられる。
*
堀内や大野を始め、当時の若き表現者たちが“新しい何か”を求めて飛び込んで行った日本版『ヘアー』公演。その概要は、こんな具合だった。
そしてそれは、ライヴ・パフォーマンスの宿命として、いや、おそらくはそれ以上に特異な変化の年――“1969年”の事象であったがために、いまとなっては到底“体験”する術はない。
“体験”することが、もしもヘアーの真髄に触れることだとするならば、多くの人にとっておそらく、日本版『ヘアー』というのは、永遠に掴み切ることのできない、手の届かない存在なのだろう。
筆者のようにそこにいなかった者は、話題作であったということは伝聞から知れても、そこに存在していたであろう“空気”や“熱”については、断片的な情報から想像することしか、できないのである。
その意味で、その一端を記録した『日本オリジナル・キャスト盤』が当時制作されたこと、また、それが事件のあおりで封印されることもなく無事に発売となったことは、大きな幸いだった。
いや、この音源に耳を通したとしても、日本版『ヘアー』について、その時代を肌で知らない者は、なにかわかったような意見を言える立場にはないのかもしれない。それは、当時に起きたこと全体についてもそうなのかもしれないし、そんなことを考えると、自分は押し黙ってしまいそうになる。
それでも、この日本版『ヘアー』の存在には、自分はなぜか心を惹かれるものがある。繰り返しになってしまうが、それはやはり、――当事者たちも後年、同様の言葉で振り返っているように――、そこにある種の熱量を、なにかを希求する若者たちの熱気を感じ、そこに時を経てもなお、絆されるものを感じるから、なのではないか、と思う。
そして、その、言葉にし難い、ひりつくようなパッションは、〈ガロ〉のスターティング時にもそのまま引き継がれるものではなかったか、とも考える。
具体的にガロのメンバーにとって、『ヘアー』がなにを残したかについては、次項以降で考えてゆきたい。
以下は突然の中止から約一年を経ての、加橋かつみの発言である。おそらくは現場に携わった者にしか知りえないであろう、なにか清々しさを感じるのは、筆者だけだろうか。
■付記
なお、大野がウーフとして歌う劇中曲にはもう一曲、「ソドミー(Sodomy)」というソロ曲もあった。しかし現在の感覚からしても刺激的な歌詞が問題視されたのか、日本キャスト盤には残念ながら、収められていない。
だがこの曲の存在は、このミュージカルについて深く知るには外せないものでもある。興味を持たれた方は、海外のオリジナル・キャスト盤所収の同曲や歌詞に触れ、大野が歌う姿を想像してみてもいいかもしれない。
『ヘアー/日本オリジナル・キャスト盤』は 70 年の発売以降、長年廃盤が続き(99年に一度だけ、CD 化されたことがあった。BVCK-38043)、その音に触れることが難しくなっていたが、2021 年になり、配信という形で、ようやく再リリースがなされた(タイトルは『Hair (Original Japanese Cast)』)。現在ではダウンロード販売のほか、各種ストリーミング・サービスで容易に耳にすることができるようになっている。
日本版『ヘアー』の詳細に関する文献としては、出演者のひとりであったポール岡田が 2009 年に小説仕立て(セミ・ドキュメンタリー)という形で著した『HAIR1969/輝きの瞬間(とき)』(飛鳥新社)が、読み物としての面白さからも、資料的な意味合いからも、往時を伝える最良の書と思う。巻末対談には大野が参加しており、こちらも貴重な証言となっている。
さらに周辺事情を俯瞰したものとしては野地秩嘉が1994年に著した『キャンティ物語』(幻冬舎)があり、さらに近年では前記した川添象郎自身の回想録『象の記憶』(DU BOOKS)も出版され、『ヘアー』に関するエピソードが綴られている。それぞれの見地から様々な見え方があり、もしご興味あれば、是非併せて手に取られることをお薦めしたい。
※以下第8回へ続く→第8回を見る
(文中敬称略)
Special Thanks To:大野真澄、木下孝、鳥羽清、堀内護(氏名五十音順)、Sony Music Labels Inc. Legacy Plus
主要参考文献:※最終回文末に記載。
主要参考ウェブサイト:
『VOCAL BOOTH(大野真澄公式サイト)』
『MARKWORLD-blog (堀内護公式ブログ2009年~2014年更新分)』など
(オリジナル・ヴァージョン初出誌情報:『VANDA Vol.27』2001年6月発行。2023年全面改稿)
©POPTRAKS! magazine / 高木龍太
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