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パリオリンピックをみて(2024.8.15)

阿部詩選手の号泣をみて感じた、感情に浸りきることの意味。

阿部詩選手の一連の放送を生でみながら、
純粋に悔しいよなと共感して涙ぐむ自分がいる一方で、

10年前の自分がフラッシュバックした。

不謹慎かもしれないが、あの場であれだけ泣き崩れることができて「うらやましい」と感じた自分がいた。10年前に自分自身が目標の日本一を逃した瞬間、一度はその場で泣き崩れた。しかし、そこで父に無理やり抱き起こされる。「主将だろ!最後まで見届けろ」と。もうだいぶ記憶は曖昧なので、実際は全然違うかもしれないが、、、自分の記憶ではそんなニュアンスで残っている。

当時は一選手としての自分以上にチームを率いる主将としての自分の役割をとても大事にしていた。その観点であの時の父のおかげで最後まで理想の主将像を演じ切ることができたので感謝しかないわけで、当時の自分の大事にしていた信念の観点ではあれが正解だったといえる。

一方で、あの場で泣き崩れて過呼吸になるぐらい泣ききりたかった自分がいたのも事実だと思う。

また、更にこのことを書きながら思い出したのは、大学2年生の時に試合後に号泣したこと。泣きすぎて目が腫れて泣き止んだ後から翌日にかけて、コンタクトをしてるのになぜか目が曇って見えるほど泣いたのをよく覚えている。大学2年生ということで立場は違えど、あの時は本当に泣ききったという感覚を持てていてその分そのあと前を向くのが早かったような気もしている。大学2年生の時と4年生の時では気持ちの入り方が違うからそんな単純ではないと思うが。

<感情に浸りきることの意味>

その時の感情に正直になり、浸りきること、受け止めきることはとても大事なことなのではないか。なぜなら本当にその瞬間しか感じられないものがあるから。賛否両論あるのだろうが、あの場で我慢して会場を去るのと、あの場で泣き崩れるのでは、次に向けての一歩という観点では大きな違いがあるのではないかと感じる。

社会の中で生きていると、感情を抑えて生きることが多くなる中で、そこに蓋をせず、怒るときは怒りきる(誰かに当たるわけではなく)、悲しい時は悲しみに浸りきる、嬉しい時は喜びきる、そんな感情に浸りきるありのままの人間らしさも大事にしていきたいなと思考の旅をさせてもらった阿部詩選手のシーンでした。

感情に浸りきった阿部詩選手の今後も引き続き応援したいなと思います。

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