自己肯定感とルッキズム
自己肯定感というのは、愛だ。ラブマイセルフ。
ところが近頃世の中で謳われる自己肯定感の多くは、結局「ルッキズム」の雁字搦めになってしまっているように感じる。
実際私自身もつい最近までその現象の真っ只中にいた。
ダイエットやメイクをした"より良いと思える状態だけ"を自分の姿として認めるのは、本物の自己肯定ではないんじゃないか。今年に入ってからそう思えるようになった。(そのきっかけについても本投稿後半で話そうと思う。)
そんな事を思うようになってから、私は容姿と自己肯定の結び付きを少しずつほどき始めている。
そのおかげでだいぶ楽になったので、今回noteを通じてみんなにも話したい。
ルッキズムの観点から、「自己肯定感」について考えていくぞ。
さて、いきなりだが、自撮りを載せるという行為には、二種類あると思う。
①救済のために載せる
②共有のために載せる
私は高校生の頃から恥ずかしげもなく人前で自撮りをし、SNSに頻繁にアップしていた。
しかし自分の容姿なんて大っ嫌いだった。顔も体型も。
これに関しては遠慮なく人のせいにさせてもらうけど、
塾の男の子たちから毎日「ブス」「デブ」といじめられたり、
付き合った相手から「その体型だと友達に紹介できないから痩せてくれない?」と頼まれたり、「俺、顔とか全然気にしないから!」と急に慰められたりした何百もの経験から、
ずっかり自分の容姿が「よくないもの」にしか見えなくなってしまったのだ。
よくなくて当たり前。そんな感じ。
それに、女の子は特に、小さな頃から外見的な美しさにおける社会基準を、とにかく叩き込まれる。
二重じゃなきゃ可愛くない。顔が小さくなきゃ可愛くない。鼻は小さく高くなきゃ可愛くない。髪の毛はウルウルサラサラじゃなきゃダメ。ニキビできちゃダメ。
痩せてなきゃダメ。体毛は生えてちゃダメ。・・・・。
テレビを見てても、雑誌を読んでも、恋をしても、
チャームポイントなんて誰も教えてくれなかった。
教えてくれたのは、「どこが醜いか」ばっかりだった。
気付いた頃にはコンプレックスの塊になっていた私。
家族とも友人とも腹を割って話せず距離を置いてしまっていた為に、唯一身近な人間となった恋人に微かな希望を託したものの、すんなり容姿を否定され、どんどんコンプレックスを加速させていった。
そして、もちろん自分で自分を褒めるなんて出来っこないくらいに、自信のなさは大きく膨れ上がっていた。
でもだからといって自分に対して無関心ではいられない。
幼稚園児のように「〇〇ちゃんキラーイ」と、アッサリ見限る事が出来なかった。
そしてこの自分に対する感情のギャップが、私をどんどん苦しめる。
苦しくて苦しくて、とにかく私の代わりに褒めてくれる人を求めて、出来るだけ今よりマシと思えるものを自撮りで作りあげては死んだ目でスマホをいじり、SNSに載せまくってたんだと思う。
そして、ほんの数人から貰う声や、ほんの少しのいいねが命綱になった。
なんかほんと現代人って感じするわね。
つまり①だったわけだ。救って欲しかった。
認めて欲しくて。
これは自撮りする側にしか分からないメンタルだと思うけれど、載せてるからといって容姿に自信満々なわけでは全くないのだ。むしろ正反対だったりする。
とにかくあの時は、
容姿で失った自信や価値は、容姿でしか回収出来ないと思っていたし、それしか方法が分からなかった。
正直悲しい時期だったと思う。
「自分の容姿に自信がない=自分が嫌い」という方程式は、有害な程に根深く私を支配していたのだ。
時が経った今も、自分の容姿には自信は無い。
顔がもっと小さければなーとか、鼻先がちゅんとしてたらなーとか、お腹もっと引き締まってたらなーとか、たくさんある。
鏡を見たく無い日だって当たり前にある。
容姿のせいで人と目を合わせて話すことすら困難な日もある。
でも、「じゃあ自分のこと嫌い?」と聞かれると、そうでもない。
正直別に嫌いじゃない。
ただ、それは決してキラキラとした感情ではない。
毎日ムラがあるし、嫌い!となる時もある。
けど、完全に嫌いかと聞かれたら、別に嫌いじゃないのだ。
理由は、自分の知る自分の"価値"が、容姿では無くなったからというが一つある。
価値=容姿という、所謂「ルッキズム」から若干解放されかけてるという事だ。
走る速さや、売り上げなどは、具体的な数字が出るのでその数字におけるランキングがあるのは仕方がない。数字の差は確実に存在するから。
しかしそれが価値にそのまま反映されるかといったら、そうではない。
みんなも分かってるでしょ?
だって、例えばこのnoteを読んでくれている人は、少なくともペギーズを好きでいてくれている人だと思うけれど、
数字の話で言えば私たちはオリコン何十位だし、数でいう上は沢山いるわけだ。
それでも私たちを良いと思って聞いてくれている。
ってことは価値と数値はイコールではない。OK?
だから、目の大きさも、ウエストも、数字にすれば誰かとの差が生まれるけれど、それは美しさの差ではない。価値の差でももちろん無いのだ。
色々偉そうに言ったが、少し前の私だったらどうだろう。
「自己肯定感を上げる為にはどうすれば良いですか」
そんな質問を貰ったら、こう答えていたと思う。
「ダイエット頑張ったり、メイクしたりして理想の自分に少しでも近づけば自己肯定感上がるよ!」
他でもなく私自身がそうやって「自己肯定感」を手に入れた気でいたからだ。
コンプレックスの塊だった私は必死にダイエットして来たし、顔に注射を打ったりしてきた。
去年からはジムに通い詰めて、白米や砂糖を使った料理を一年絶つほどだった。
そして今年の4月くらいだろうか。
仕事が忙しくてジムに行けず、ご飯も不規則な時間に仕事場で出るお弁当を食べる事が増えた時、物凄い不安に襲われたのだ。
「どうしよう、このままじゃ太ってしまう」
「元に戻ってしまう!」
「肉が付いてる自分なんて自分じゃない、痩せてる自分がいい」
毎日不安だった。
お風呂に入る時は電気を消して、自分の身体を見ないように目を瞑ったり逸らしたりした。
理想とは言えない自分の身体を見るのが怖かった。
なんでだろう、自分を好きになって肯定してたんじゃないの?なんでこんなに不安で辛いの??
その時思ったのだ。私がダイエットやメイクで手に入れたのは自己肯定感なんかじゃなく、
「社会基準でより良いとされる姿を手に入れた事による安心感、高揚感」でしか無かったと。
自分や誰かに褒められるビジョンが頭に浮かぶのが嬉しかっただけ。
結局まだ、自分を認めるために誰かに褒められる日を待っていた。周りからの評価に依存していた。
だってもし両親や恋人に「痩せたから大好き!絶対に太らないで!」「メイクしてなきゃやだ!絶対メイク落とさないで!」なんて言われたらどうする?
それを愛だと感じられるか?肯定されてるな〜って満たされるか??
「えっ、じゃあ太ってたら好きじゃないのね、、」「すっぴんの私は好きじゃないのか、、」そう思うでしょう。
それと同じことを私は私自身にしてたのだ。
自分自身に美しくあることを押し付け、辛い思いをしながらせっせと努力させてやっとの思いで達成した途端、手のひら返して「大好き!君の存在を肯定する!」なんて、自分が可哀想すぎる。
完全にブラック企業だ。
とはいえダイエット(健康の範囲内)やメイクや整形を否定するつもりは一切ない。
私も、身体が引き締まるのは嬉しいし、目がぱちっとしたりニキビが消えると街を歩く足取りが軽くなる。なんならいつかおでこを丸くしたい。
言いたいのは「そうじゃないと自分を認められない」状況にいるならば、それは自己肯定しているとは言えないよという話だ。
つまり、ダイエットせず好きなだけ好きなご飯を食べた自分の姿も、どんなすっぴんも、「自分の姿の一つ」として受け入れなければいけないという事。
好きになれなくても、受け入れなくてはいけない。
そしてそれが出来てこそ、やっと「自己肯定」だ。
受け入れたうえでする努力は、さらに豊かなものになるんじゃないか。引き締めたって、顔にメス入れたって、なんだって良い。自分の姿のレパートリーが増えるのはきっと楽しいと思う。
じゃあどうすれば受け入れられるのか。
それは、とにかく社会的な美に対する価値観から自分を切り離す事が大切だ。
自分を肯定するために、誰かに褒められるのを待たない事。
「世間は痩せてた方が好きって言うけど、痩せてても太ってても私は私を受け入れるよ。」
それこそが自己肯定の正体ではないだろうか。(※容姿から紐解いた時の)
自己肯定感を上げるには、「より美しいとされる自分」目指すのではなく、「どちらの自分も受け入れる自分」を目指すべきだ。
しかしそれはとてもとても難しい。
私自信完全にルッキズムから解放されたかというとまだまだ揺らぐ瞬間は沢山ある。
それでも、目指すところが明確になってからは本当に楽になった。落ち込んでから這い上がるまでの時間が確実に短くなったと思う。
そしてそして、
これは何より伝えたい事だが、容姿に自信が持てないのは貴方のせいじゃない。
完全にディスって来た誰かのせいだし、多種多様な美しさを許してくれなかった社会のせいだ。
だから自分を責めないで欲しい。
誰かの美しさを妬み憎むのではなく、ルッキズムに囚われて他人をジャッジする社会や人物を憎み、抗っていくのだ。
そうやって自己肯定に一歩ずつ近づいていかないか。私もいるから。
長々と話してしまって申し訳ないです。
思う事がありすぎて。
とにかく、そうやって段々と容姿に関しては社会と自分を切り離して考えられるようになって来た私は、自撮りをしてSNSに載せる時の心持ちがいつのまにか変わっていた。
今や「盛れたから載せよ」くらいのもので、
「自分が盛れたと思ったから純粋にその気持ちを共有したい」といったところだろうか。つまり②。
もちろんブスもデブも言われたくない。それらは全く下品な言葉だと思う。
言われたくないし言いたくもないね。だって言っていて気分の良い言葉ではない。人々を見ていると、なんであんな軽々と発することができるんだろうと思うよ。
あ、そして褒められるのは当たり前に嬉しい。
しかしだ。
悪口も褒め言葉も私の価値を左右するものでは最早ない。私のテンションは左右するが、価値は左右されない。もう、救済の為の自撮りではなくなったのだ。
さて、私はまた数日後になんとなく撮った自撮りをあげるだろう。
そこに写る私の姿にはあの日から変わらないいくつものコンプレックスや劣等感が確かに見え隠れしている。
それなのに、何故だろう。
あの頃とは全く違う人に見える。
来年、再来年と、もっと変わっていく自分が楽しみだ。
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