私は私の人生を愛している。 ということに気が付いた。 大体、私は自分を愛するということについてばかり考えていて、それ自体がもう究極の自己愛なのかもしれないとも思うのだけど、とにかくそういった考えに人生の大半を注いでいる。 なぜそんなことばかり考えているかというと、結論から言うと孤独になりたくないからだ。 遡って中学生の頃、学校の課題図書で夏目漱石のこころを読み、ある文章に大変驚いた。 今本が手元にないので原文お母さんでここにその文章を残すことができないのだけど、記憶を
今日スレッズで「期待」という言葉を使って、思い出したことがあったので書き留める。 その昔、当時付き合っていた人との関係に暗雲が立ち込み始めた頃、状況改善のため自分の言動や心のあり方を省みたことがあった。 その結果、 「他人に勝手に期待するからいけない、期待しなければ傷つかないし向こうも迷惑しない」 という結論に至った。 そしてそれをある日、母にこぼした。 母の運転する車に乗っている時だった。 「相手にもストレスをかけてしまうし、期待しないように気をつける」。 そした
好きなタイプ、それは過去の遺産だ。 いままで「いい」と思った色んな人たちの、いや、人単位ではなさそう、色んな言動、いやそれもまた違う。 ああそうだ、きっと、私の様々な記憶から生まれた、時にはもはや誰でもないような、人間の形にも満たない影の欠片たちが、幾重にも重なって生まれたものだ。 そしてそれもまた影でしかないわけで。 とにかく好きなタイプというのは道標のように力強く私を導くものではなく、 道標のない道で、さぁ私はどこに進むのか、それを判断するのに全くの情報皆無では流石
先月タイに行った時、あ、私可愛いんだったと、自分が可愛いことを思い出しました。(これだけ聞くとヤバい話) 今言ってる可愛いというのは造形がどうとかそういう話ではなくて存在の話。 私的に、人は元々みんな可愛い。 そう、元々可愛いはずなんだけど、生きていくなかで誰かや世間に否定されたり打ち消されたりして、曇っていってしまうんだと思う。 私の経験上、辛いこととか悲しいことが長く続く時って大体、悲しみがジワジワと心を侵食していつの間にか自分の可愛さを忘れてしまった時や、なんらか
タイに行ってきた。 日本からタイまで飛行機で7時間ほど。 海外旅行の荷物は極限まで減らしたい族なので、イヤホンも本も持たずに飛行機に乗り込んだ。 そうして迎えたフライトは予想通り、いや予想以上に絶望的な暇さであった。 そんな中できることといえば、人間観察と考え事と睡眠。 周りを見渡すと、予めダウンロードしてきた映画を見ている用意周到なしごできたちがチラホラ。 見られている映画のジャンルは見る限り、ヒーローもの、アクション、SF。どれも私も見たことのある作品だった。 確か
私には私の辞書があります。 私の辞書、と呼ばれるこれは、「自分にとってそれが一体なんなのか、どう見えるのか、どう考える対象のか」を埋めていく極めて個人的な私の脳内の一冊のこと。 広辞苑が10年に1回改訂されるように、私の辞書も日々アップデートされていきます。 国語辞典に反抗するためのものではありません。たまに反抗するかもだけど。 国語辞典は私の辞書制作において大事な手引きです。先輩。同じ大学の違うサークルの先輩、みたいな。大学行ってないから分からないけど。 私は、私の
タイアップしてきたアニメのお陰もあり 私には海外のフォロワーの方が多い。 ていうかなんならInstagramのフォロワーの過半数は海外からだ。 海外のファンの皆んなは、これでもかというほどに毎日愛のメッセージを送ってきてくれる。 彼らの母国語で送ってきてくれる事もあれば 私が読めるようにと一生懸命日本語で伝えてくれる事もある。 「翻訳アプリを使っています。日本語が変だったらごめんなさい。」 そういった一言まで添えて伝えてくれる人たちも沢山いる。 大丈夫だよ。 ちゃんと
久しぶり過ぎちゃいました。 すみません。 2022年ももうあと少しですね。 奇数よりも偶数派なので、近年でも特に偶数感の強い2022年が終わってしまうのは少し寂しいです。 というわけで、流石に今年を振り返ろうかなと思います。 備忘録としても。 Googleカレンダー遡りながら書きますね。 まず、私たちにしては珍しく、 1.2.3.4月と連続して対バンやツーマンのライブをしましたね。 1月は弾き語りで坂口有望ちゃんと果歩さんと。 2月はペギーズで夜の本気ダンス、3月
2016年の自分のツイート。 なんとなく呟いた言葉だったけど、なんだか今になってしっくり来ている。 しっくり。 早速余談だけど、しっくり、というのは着物を体に馴染ませる為の仮縫いである「仕付け」が語源らしい。仕付け→仕付く→しつく→しっくり?的な?諸説あり。可愛い響きだよね。 話を戻すと、 人格というのは毎日の選択のうえに成り立つものであり、人格があっての選択ではない、と、私は考えてる。 選択というのは、こんな時どんな言葉を言おう、だとか、今どういう行動をとろう、
ノルウェイの森の孤独、生と死 3年G組11番 北澤佑扶 (と、お直し北澤ゆうほ(26)) 読み終えた時、現実と非現実の狭間をぐるぐると行き来しているような作品だと感じた。ワタナベ、直子、緑。あらすじだけなぞれば私達の周りにいくらでも存在しそうな人物たち。実際ストーリーの中で彼らの言動に感情移入できる場面は何度かあった。しかし垣間見えるのは決してポピュラーとは言い難い情緒の不安定さや死に対するイメージ。今私の生きている世界とはまるでかけ離れたそれらの感覚に、時には嫌悪感
前回の投稿から更にまただいぶ時間が経ってしまった。 甚だ申し訳ない。そんな気持ちでパチパチとキーボードを弾いている今です。 noteというフォーマット上では空白の3ヶ月となってしまいましたが、 その間、私にとってとても大事な出来事が二つございました。 その二つというのは The GARDENという2ndフルアルバムをリリースした事と、Be ORANGEという全国ツアーを完走した事。 いろーんな意味で 多分、一生忘れらない数ヶ月になったと思う。 多分。 まず2ndフル
今まで何度か恋愛してきた。 同時に私はソングライターで、何曲もラブソングを書いてきた。 私の恋愛と私の書くラブソング、その二つは、"実体験かどうか"だけではなく色々なかたちで関係している。 みんな各々の経験や思い出に当てはめて聴いてくれていると思うので、みんなの大切な思い出や抱いてくれた曲のイメージを邪魔しない程度に、今日はお話したいと思う。 早速ではあるが、私はロクな恋愛をしてこなかった。 前回の記事で書いたように酷く罵られた事もあれば、住宅街の暗がりで血まみれにな
自己肯定感というのは、愛だ。ラブマイセルフ。 ところが近頃世の中で謳われる自己肯定感の多くは、結局「ルッキズム」の雁字搦めになってしまっているように感じる。 実際私自身もつい最近までその現象の真っ只中にいた。 ダイエットやメイクをした"より良いと思える状態だけ"を自分の姿として認めるのは、本物の自己肯定ではないんじゃないか。今年に入ってからそう思えるようになった。(そのきっかけについても本投稿後半で話そうと思う。) そんな事を思うようになってから、私は容姿と自己肯定の結
「誰も特別じゃない」 細々と頼りない字でそう書いてある掛け軸が、私の心にはずっとある。 ちなみにこの掛け軸で言う特別は、恋人や仲間や家族などに抱く感情の事ではなく 「他より優っている」とかの意味での特別。 そりゃ私から見て才能あっていいなと思う人とか、あなた一際輝いてますよ良かったですねと思う人とかは山ほどいる。 羨望の眼差しが過ぎて憎しみに変わってしまう程、劣等感を掻き立て心を抉ってくるような存在だ。 おいおい真っ先に矛盾したこと言ってるんじゃないよ。 と矢が飛んで来
世界は広い。そりゃ分かっている。 世界どころか、東京ドームですら野球を観に行く度「やっぱ広いなー」と思うし、よくある謎の「東京ドーム何個分」という例えで言うとどうやら地球は東京ドーム109億683万3千494 個分らしい。 分かってはいるけれど、 自分が人間関係やら仕事やらで悩んでいたり絶望していたりする時に、「大丈夫!世界は広い!」と言われても、 正直、私の心には1ミリも刺さらず、はぁ、としかならない。 それどころか、さらに凹むケースもある。 東京ドーム109億68
恋とは何なのか、好きとはどんな感情なのか、 無理に答えを作って当てがう必要はないと思う。 (共に人生を歩む関係性というのは恋愛以外にも沢山あるわけで、ペアを"恋人"と総称するのは良く無いと思うのですが、今回は恋愛に纏わる話なので"恋人"と表記させてもらいます) 私は 「私 × 恋人 = ○○」 という式で、私とその人を掛け合わせた時に導かれる○○こそが「恋とは何か」だと思っている。 つまり○○は、掛け合わせる対象が変われば(恋人が変われば)当たり前のように毎回変容してい