避けるのではなく共にいてみたら。
何を避けていますか?
どんな方法で避けていますか?
避けることで得られたもの、失くしたものは何ですか?
何かを「避けている自分の部分」と共に居ることで
そう感じる事は恥ずかしいことではない。どんな自分も愛おしいという気持ちになった。
「避ける」自分と共にいる
避けていることと共にいることは、なかなか大変なことだ。
「避ける」ことは、私にとっては楽をすることだけど、同時に罪悪感もやって来る。葛藤・・・。これと共にいることを実験的にやってみる?
修行やん (笑)
「避ける」を私たちは無意識でやっている
「何を避けていますか?」
「どういう方法で避けていますか?」
「避けることで得られたもの、失くしたものは?」
無意識でクセになっているから、いつものパターンになっている。
これでは成長が止まってしまう。
そして、「避ける」は自分を守ることでもあり、とても大切なことでもある。
どっちを選ぶかは自分次第。どっちを選んでもいい。
避ける自分の言い分を聞く
時間をかけて「避けている自分」の言い分を聞いてあげる。
駄々っ子やいたずらっ子を頭ごなしに叱っても
同じことが繰り返されるのと同じで、
どうして欲しいのか。どうしてそんな事をしたくなるのか。
その気持ちをじっくり聴いてみると、何だそうだったのか!って
大人にも原因が分かって、改善されることがある。
そんな要領で、「避けている自分」の言い分をじっくり聴いてみる。
聴きながら気がついたことも言葉にしながら。
そうすると・・・。
どんな自分も、私の一部分。そうだった。と、気がついた。
避けることは、恥ずかしいことではない。
恐がることも、逃げることも、拒絶することも、しがみつくことも。
そういう私の部分がいる。
ただそれだけ。それだけのことだった。
言い分を聴くと何だか「避けている自分の部分」が愛おしく感じられた。
出会う時間をつくってみる
「避けている自分の部分」って、見てみぬふりをしたり、一方的に拒絶したり、その部分が出ないようにコントロールしようとしたり。
かなりエネルギーを使う。
そして、そんな努力もむなしく疲れて、ますます自分が嫌になる・・・。
安心できて安全な場を確保して、そんな部分のある自分と出会う時間を作って、言い分を聴いてみる。
そこには、とても愛おしくなるような理由があるかもしれない。
どんな自分の部分も、私の部分。
そんな理由で、頑張ってたんやね。。。ありがとう!ってね。