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言語は共通語だけでいい?

日本語の授業後に中国からの留学生にこんなことを聞かれた。(わたしは日本語教師をしている)。
「世界の言語はみんなが使いやすい言語、例えば英語だけになったらいいと思いますか」

その留学生は、大学で専門科目を学ぶかたわら教養科目で英語やフランス語などといったさまざまな言語を履修している。友人との会話でそんな話がでてきたらしい。わたしの答えは(もちろん)NOだ。

世界には6000もの言語があるそうだ。しかし、その半数近くの言語が消滅の危機にあるらしい。そもそも6000もの言語があることに驚くが、消滅の危機にあるということはその話し手がいなくなることを指す。話し手が亡くなるという場合もあるし、話し手であった人が別言語を使用することによって継承者がいなくなるという場合もある。

もし、日本語がなくなったら?
おそらく日本の文化や思考がダイレクトには伝わらなくなるのだろう。
例えば、

雨に降られた。
I was caught in the rain.

直訳では「わたしは雨につかまった」だろうか。一見すると意味は同じだ。だが、やっぱりニュアンスが違う。英語では自動詞の受け身はないから、とか文法の話は置いておいて。雨はただただ降っているだけなのに、それをどう感じるか、が「雨に降られた」にはある。

お茶が入りましたよ。(え、勝手に?)
お茶を入れましたよ。(わたしが)

資料は準備してあります。(え、だれが?)
資料は準備しておきました。(わたしが)

ごめんなさい。割れちゃった。(え、自然に?)
ごめんなさい。割っちゃった。(わたしが)

人の行為を表す他動詞より、その結果を表す自動詞を多用する。いいことも悪いことも、人の行為ではなく、自然が運命を左右する。そんな表現の特徴が日本語にはある。古来からの日本人の考え方や文化がことばには反映されている。

もちろん、この特徴も時代の流れや社会の変容にともなって、変化していくのかもしれない。

扉を閉めます。(わたしが)

は、メジャーになりましたね。「わたしが閉めますよ~」感を出した方が、駆け込み防止に効果があるらしい。

こんな小難しいことを言わなくても、方言も同じだと思う。
わたしは関西人なので、関西弁の方が気持ちを表現しやすい。新人のころ、クラス以外でも標準語を使おうと頑張ったが、あまりに自分の感情が上滑りしてしまうようで、しばらくしてやめてしまった。

クラスでは、「母語を使わないで」「日本語で話して」と指導するが、それはあくまでトレーニングとして。学習者からも日本語学習をしながら「母語力が必要だ。もっとちゃんと勉強しておけばよかった」という声を聞く。

母語は、その人の思考を体現するためになくてはならないものだ。そして、そうでない言語にふれることによって、自分のアイデンティティに気づくことができる。おそらく、件の学習者もその途中なのだろう。

学習者とのこんなやりとりができる環境、ありがたいなと思う。

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