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自分の軸は、何ですか?

自己紹介で仕事の話をすると、「どうして日本語教師になったんですか」と聞かれることがある(わたしは日本語教師をしている)。

「学生時代の留学経験がきっかけで…」とか
「これからの社会を見据えて、ぜひとも日本語を世界にと思い…」とかを期待されるのだと思うのだが、残念ながらこれといった動機を覚えていないのでいつも返答に困ってしまう。(現在の目標はあります、念のため)。

記憶にあるのは、学生時代に近所の大型書店で、日本語教師になりたい人のためのムック本を立ち読みしたこと。そのときにはじめて、日本語教師という職業があることを知り、所属学科の選択コースで関連科目が学べることを知った。

それまでは、出版関係の仕事に就きたいと出版を学べるコースに行こうと思っていたが、いさぎよく?進路を変更、日本語教師を目指すことにした。

いざ、就職活動となったとき、わたしのように学部で少しかじった程度では働けるところがないことを知る。新卒では難しく、院卒または海外就業経験が求められた。

まわりはすでに就職活動に動きはじめていた。ときは就職氷河期。先輩たちは大げさでなく百枚を超える履歴書を手書きで準備し、面接を受けに行く。

まだインターネットも一般的でなかった時代で、情報も限られていた。それでも、専門誌でオーストラリアの大学でインターンがあり、それに参加すれば経験が得られることがわかった。

しかし、それにはかなりの費用がかかる。
大学を卒業したら就職するものだと思っている親には寝耳に水の話だろう。
まさか費用を出してもらうわけにはいかないし、自分で工面しなければ。
それよりも何よりも、わたしはそこまでして日本語教師になりたいのか?
そして、本当になれるのか。なれなかったら、どうするの?

そんな悩める時期に受講していた講義で、レポート課題が出た。テーマは「歎異抄における文学的意義について述べよ」とかなんとかだったと思う。とにかく、浄土真宗の開祖者親鸞の話を弟子の唯円が書き残したというそれを読まなければならなかった。

そして、その内容が、わたしの人生を決定づけた。

人間がやることなんて、お釈迦様から見れば、所詮大したことじゃない。人間がすばらしいと思ってやっていることも、反対になんて悪いことだと思っていることも。だから、せいぜい気張って、自分のやりたいことをやってみればいい。成功しても、失敗しても、大したことがないんやから。

専門家ではないので違っているかもしれない。でも、わたしはこのように受け取って、自分の中にストンと落ちた。

それからは、日本語教師を目指し、今自分にできることをやることにした。海外費用調達のためアルバイトを3つ掛け持ち、大学の講義を聴講した。朝から晩まで動き、きちんと?飲み会にも参加した。

なぜだか不安に思わなかった。「今できることをやればいいんだ。もしダメでもなんとかなる!」という確固たる自信。

若かったし、世の中を知らなかったというのはもちろんある。でも、だからこそ生まれる前向きなエネルギーと日々楽しもうとする躍動感が当時のわたしにはあった。

そして、それを支えたのは、歎異抄の一節。
これは、今でもわたしの軸になっている。正確に言うと、軸にしようと未だ努力している。

毎日の些末な問題や決定、そんなときに生じる迷いやストレスが大きくなると、自分の軸を戻すために心の中で呪文のように繰り返す。

その後、日本語教師になることができ、現在に至る。皆に誇れるようなエモいエピソードではないが、わたしにとってはターニングポイントとなる出来事だった。

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