ナントカらしさで縛らないで
雨音を聞くと思い出すことがある。
雨に濡れない小さな部屋の中でトタンや地面にうちつける雨音を聞いていると、ほっとしたような少しワクワクしたような気分になる。
もし外にいたら濡れてしまって面倒くさいことになるけれど、自分は安全なところにいるから大丈夫。小さなバリアに守られているようなそんな感覚が子どものころから好きだった。
そんな気持ちを小学校の国語の授業で詩に書いたことがある。
詳細までは覚えていないが、韻を踏んだりリフレインを使ったりして、雨の日の気持ちを詩に込めた。自分の気持ちがよく表せていると、気に入っていた。
それまでに書いた詩の中から一人一つ選び、クラスの文集を作るとなったとき。わたしはこの雨の詩がいいと思ったのだが、担任がいいと選んだのは運動会について散文的に書いた詩だった。
これも詳細は覚えていないが、わたしのイメージではお笑い芸人のロバート秋山さんのネタ「小学生が版画で彫りそうなタッチで表現する」の版画版ではなく「詩版」だ。
大人から見る子どもらしい元気な絵。笛を吹く顔が歪んでいたり、笛を持つ手がデフォルメされていたりする絵。それの、文章版だったように思う。
わたしは運動会の詩を担任が選んだとき、「子どもらしいのがいいんだな」と思った。雨の詩は子どもらしくないからダメなんだなと。
今となってはそれが真実かどうかはわからない。わたしの思い込みかもしれない。雨の詩は、大人から見れば「どこかで見たことがある型」だったのかもしれないし、面白さも斬新さもなかったのかもしれない。
でも、当時のわたしの気持ちはきっと、雨の詩に表現されていた。それを見てもらえなかった、気づいてもらえなかったという記憶。雨音とともに未だ心の隅に小さな根を下ろしている。
日本語学習者が作文を書くとき(わたしは日本語教師をしている)、わたしはちゃんと彼らの想いに気づけているだろうか。
意気揚々と提出してきた作文が、未習語彙ばかりで文章の体をなしていないとき。学習していない文法を使って意味の通じない文章になっているとき。辞書で調べた語彙がうまく合わずに意味不明になっているとき。
中級前半レベルまでぐらいの学習者にはこのようなことがある。表現したい内容と学習語彙レベルが合わないのだ。
「勉強した文法とことばを使ってください。それで、伝わるから」
これは半分本当で半分はそうではない。
大きな意味では伝わるが、学習者が伝えたい繊細なニュアンスが伝わらないこともある。伝える側も受ける側も伝わっていると思っているだけのこともきっとある。
中級レベルらしいことばや文法を使えば間違いは少なくなるが、もしかするとその想いは伝わらないのかもしれない。時にはそれを超えて伝えたい想いがあるのかもしれない。
自分も知らず知らずのうちに、ナントカらしさで縛っていないか?
そんなことを考えた、雨の日曜日。