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演劇は、「見る」だけでは物足りなく、「体験」できてこそのものだと思っています

『怒る人の気概』について、嬉しい感想をいくつももらったので、これから何回かにわけて、記事にして返信していきます。返信していくなかで、口頭でいただいた感想にも触れていきます。


ぺぺぺの会は本当の意味で客席を舞台にする


いつもご観劇いただき、誠にありがとうございます。私もできることなら、配信じゃなくて、ライブで観ていただきたかったです。泣

演劇が配信されて、多くの人の目に触れやすくなることは業界にとっていいことであるのかもしれませんが、配信で見る物足りなさっていうのがある、とやっぱり僕は思ってしまいます。

例えば、音楽の場合は、ライブで聞くのと、データで聴くのとでは違った愉しみかたができる、と思いますが、演劇の場合は配信での愉しみかたが未だ確立されていないように感じます。

だからこそそのフロンティアで、新進気鋭を謳う団体ほど、そこを開拓しようとするけれど、私の場合は配信(オンライン)の開拓に愉しみを見出すことがなかなかできずにいます。だったら演劇じゃなくて映画を撮ればいいじゃないかと思ってしまうんです。

私は、演劇とは、作り手と観客が同じ空間・同じ時間を経験することだと思っています。演劇人はよく、「身体」という言葉をつかいたがるけれど、「身体」が効力を発揮するのは、同じ空間・同じ時間にいる場合のみです。

ですから、私は、同じ時間・同じ空間にいられるようなオンラインの技術が開発されない限り、オンライン演劇に本気で取り組むことは今のところないような気がしています。

作り手と観客が同じ空間・同じ時間を経験することは、私にとって、演劇の定義であり、演劇の強みです。その強みをわざわざ打っちゃる必要はどこにもないと私は思います。

ぺぺぺの会のクレド(創作の方針)のうちのひとつに「ライブの会」というものがあります。

クレドはぺぺぺの会の結成当初に、作成したものですが、われながらよくできていると思うのです…。今でも、なにか新しいことを始めようとするときには、この3つのクレドに反していないか確認するようにしています。初心忘れるべからずですね…。

ですから、「① 客席がすぐ近くにあること」、「② 観客が目の前にいること」、この2つに、私の演劇ではつねに意味を持たせるように執心しています。

観客はたんに作品を見るだけじゃなくて、作品と「関係」していけるようにつくっていかないといけない。「関係」を築くためには「対話」が必要なんです。それは作品の内でも、外でも、できることであるはずです。

『怒る人の気概』では、「対話」のためのしかけがひじょうによく機能してくれてよかったと思っています。

私は事前に会場・おんがくのじかんを下見せずにこの作品をつくったので、与えられた資料をもとに想像するだけだったけど、想像と現実が乖離し過ぎていなくて本当によかった。また、密着し過ぎていなかったのもよかった。

私自身は下見せずに、下見してくださった方から印象を伝え聴いたり、写真や図面で確認したりするくらいがちょうどいいのかもしれない、とも思った。

自分で下見すると、変なところで凝り性になる傾向がある。

俳優についても、言及してくださってありがとうございます。

今回の演劇も俳優の力によってますますいいものになっていきました。

晴日もこばち(小林)も、会場に入ってからもずっとセリフをあわせて確認してくれていたし、会場や観客の雰囲気を感じ取って、その日その日の演技を組み立てていく柔軟性みたいなものが、2人には具わっていました。

それは、こうやって言葉で表現すると簡単なことのように聞こえてしまうかもしれませんが、ひじょうな技術力を要することです。2人は一流の俳優だと思います。


晴日とこばちは、タイプの異なる俳優だから、2人の違いを均すのではなくて、違いを活かすような作品をつくろう、とは当初から思っていた。また、さいわいなことに、台本もそのプランニングに適合するものだった。



次回演劇公演

斗起夫

-2031年、東京、都市についての物語-


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あらすじ

世界を、広く、大きなものにしていく——
世界を主体的に生き抜くために、行動を起こし続けることを選択した斗起夫は、父が死んだ日に「運命の人」とめぐり逢う。ぎこちない不自然なコミュニケーションが、人間同士の溝を深め、やがて過去のトラウマを喚び起こす。そして、彼はあることを決意するだろう……。オリジナル小説から産み落とされた精確な筆致、言葉の数々。ぺぺぺの会、渾身の傑作長編。

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宮澤大和
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。