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リモートやデジタル化が進むなかで, 失われつつある「リアルな体験(リスクを伴う)」の価値を再認識し, どのようにそれを取り戻していくか.


自己表現と他者からの視線の狭間で揺れ動く心情


下北沢にはよく遊びに行っていました。古着を買ったり、演劇を観たり。

けれども代田のほうへ足をのばしてみたことはありませんでした。しばらく歩くと大きなやなぎの木が植えてあった。風にそよぐその姿が印象的で、写真を1枚撮った。



写真を撮ることは好き。だけれども「写真を撮っている自分の姿」はなぜだか気恥ずかしい。そのため、人前で写真を撮れないでいる。ほんとうは撮りたいのに。

自分は忘れっぽい。だから覚えておくためには記録にのこしておかないといけない。写真を撮ると、てっとり早い。自分が見ていた景色をそのまま、のこしておけるから。

なのに、写真を撮ることが気恥ずかしいと来ている。どうしたものか。その証拠に、自分が撮っている写真は、周囲に自分以外の人がいない場所で、撮っているものがほとんど。

その点、文章はいい。「紙とペンをメモしている自分の姿」にはあまり気恥ずかしさを感じない。感じることもたまにはあるけれど。そんなときはスマートフォンでメモすればいい。TPOにあわせて。「スマートフォン」か「紙」かを選べばどこでもメモできてしまう。

加えて文章のいいところは、その場にいなくても、思いだしながら書けることです。写真はその一瞬を切り抜くツールであるのに対して、文章はいつでもどこでも、自分が思いだせる限り追憶して書けてしまいます。

海外旅行をしているときに考えました。刺激的な乗船体験。顔や衣服に容赦なくかかる水飛沫。淀んだ河のにおい。隣に座る人の歓声。灼熱の太陽。対岸に鎮座する、見慣れない建築物の数々。……これらを写真に撮ったとしても、その光景はのこせるかもしれないけど、聴覚、触覚、嗅覚、その他諸々、全身を駆使して感動しているこの瞬間そのものをのこすことはできないのだ、と考えていました。

もう少し時代が進めば、VRであるとか、ARであるとか、空間コンピューティングの世界がすてきな瞬間を「刹那」から「永遠」へと変えてくれるのかもしれません。なんて、『ワイアード vol. 53』を読みながらも考えていました。



自分の人生を振り返ってみる。たいした人生ではないかもしれません。謙遜するでもなく。

だけれども、よくよく思いめぐらしてみれば、そんな人生のなかにも輝ける一瞬間を見出すことはできるかもしれない。

喜ばしいこと。苦しいくらいに笑えたこと。いろいろなことがあった。とてつもなく悔しい思いをしたこと。恥ずかしい思いをしたこと。

「輝ける一瞬間」に共通するのはいつも誰かしらがそばにいたということです。

ひとりきりで、とびっきり喜んだこと、苦しいくらい笑ってしまったこと、反対に、悔しがったり恥ずかしがったりしたことって、あまりない。

あったのかもしれないけど、でも印象にまるでのこっていない。



孤独と社会性の間で揺れ動く人間の存在


ひとりでいれば自ずと感情の振り幅は小さくなっていきます。

本を読んでいて、面白いところがあればひとりでも笑ってしまうけれど、一瞬声が出てしまう程度。ただそれだけでしかありません。

感情の振り幅がなくなることはいいことでもある。言い換えれば、その状態は「安定」でもあるのだから。

けれども、ずっと「安定」したままでいる、というのも何やらつまらないものです。刺激が欲しい。たまには刺激的なものが、欲しくなるものです。

時として、刺激を得るためには他者とまじわらなくてはなりません。

とはいえ、他者と交流したからといって、思っていたような刺激をいつも得られるとは限りません。せっかく他者と交流しているというのに、刺激的なものを得ることができなかったとき、わたしたちは「時間を無駄にした」ような気持ちになります。時間だけではありません。他者と交流する場合は往々にして同時にお金も出費します。

あるいは、刺激を得られたとしても、それが負の刺激である可能性もあります。その場合、悔しさや恥ずかしさ、悲しみ、そのようなものを味わうリスクがあります。そう、リスクがあるんです。他者と交流することには一定のリスクがあります。わたしたちは刺激を得ようとする場合、リスクを払うことになります。



リスクを抑えるための選択肢として、「リモート」があります。

パンデミックを経験して、しばらくが経った2021年8月に、自分はこんなメモ書きをのこしていました。

“パンデミックを経験した人類は「リモートの可能性」という言葉をつかって、時折、「リモートの展望」ではなくてたんに「リモートの楽さ」について語っていることがある、ということに注意しておきたい。”

“リモートは利便性と引き換えに、人間の体験を奪っていることに気づいておきたい。”


パンデミック後、「リモートの可能性」が高く評価されることがより一般的になりましたが、そこで語られる「楽さ」は、真の可能性や展望を見失ってしまう危険性を孕んでいないでしょうか。

「リモートの楽さ」というのは、時間や場所に縛られない便利さに焦点を当てています。例えば、通勤がなくなることや、家庭での仕事が可能になることで生活の自由度が増し、ストレスが軽減されるといった利点は広く知られています。

しかし、その背後には、他者との直接的な交流や、物理的な空間での体験が奪われているという側面もあります。

この「リモートは利便性と引き換えに、人間の体験を奪っている」というメモ書きは、とくに感覚的な部分に焦点を当てて考察しています。



先ほどに述べた海外旅行の件。聴覚、触覚、嗅覚、その他諸々、全身を駆使して感動することはリモートでは、不可能です。少なくとも、現段階では。

空間コンピューティングの発達によって、人類は自宅にこもりながら、全身を駆使した感動を味わうことができるようになるのかもしれません。

でも、おそらくそれは無理な話ではないか?

技術が進化して空間コンピューティングのような高度なシステムが登場し、五感をシミュレーションできる未来がきたとしても、その体験における「リスク」が欠如している限り、それは「快楽」にとどまり、「感動」には結びつかないのではないでしょうか。

感動は、予測できない展開や自らリスクを負う覚悟がなければ生まれにくいものです。実際の旅では、交通トラブル、言語の壁、予定外のハプニングなど、さまざまな「不快」な要素が潜在しています。それらを乗り越えた先で感じる思いが、真に価値のある「感動」を生むのだと考えます。

このような現実の体験によって、ともすると「不快」を味わう可能性もある。けれど、不確実なリターンが想像以上であることの可能性に賭けて、BETするのです。そこに得られる「感動」があるからです。

パンデミックを経ても、体験の本質は変わらない。変わらなかった。人はリスクを伴うことでこそ感動や深い意味を感じるものです。

現実の世界では、リスクを払い、想定外のリターンを得ることで感動が生まれます。

このように考えると、自分の問題意識は、技術の進歩や便利さに流されることなく、人間の感情や体験の本質に焦点を当てている、ということに気が付きます。

リモートやデジタル化が進むなかで、失われつつある「リアルな体験(リスクを伴う)」の価値を再認識し、どのようにそれを取り戻していくかが、これからの大きなテーマとなるだろう。

私は演劇作家として、演劇を通してこのことを引き続き深く考えていきたいです。



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宮澤大和
今日も最後まで読んでくださってありがとうございます。 これからもていねいに書きますので、 またあそびに来てくださいね。