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さきたま古墳郡
所在地:埼玉県行田市埼玉4834番地
指定:史跡 1938年8月8日
指定:国指定特別史跡 2020年3月10日
訪問日:2024年2月12日
概要
さきたまを漢字にすると「埼玉」で、埼玉(さいたま)県発祥の地。
5世紀後半~7世紀半ばにかけて、大宮台地の北部につぎつぎと連続して築かれました。
前方後円墳8基、大型円墳2基、方墳1基と、小円墳(かつて40基あった)が密集しており、全国でも屈指の規模であり、武蔵国では随一です。
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古墳群は「さきたま古墳公園」の中にあり、きれいに整備されています。
古墳を見に来る人以外に、人はいなく(春や秋はいるのかもしれません)、ボール遊びをしている子どももいません。
こんなに広いのに?
個人的な感想ですが、もっと野趣があっても良かったかも。
いえ、整備されているのはもちろん悪いことじゃないんですが。
梅がきれいに咲いていました。
毎年、春の訪れを一番に知らせてくれる。
梅が咲いたから、今年も大丈夫という気がします。
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以下、古墳の全貌写真がうまく撮れなかったので、主にwikipediaから拝借しました。
「埼玉県立さきたま史跡の博物館」webサイトは、いい写真がたくさんあるのですが、使用禁止なんです(T_T)
丸墓山古墳
頂上まで登れます。
古墳といえば前方後円墳が真っ先に浮かびますが、全国で一番多いのは丸型なんだそうです。
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日本最大級の円墳で、墳丘径105メートル、墳丘高さ17.2メートル。
豊臣秀吉が天下統一を進める1590年、家臣の石田三成は、北条氏側の成田氏の忍城(おしじょう)を包囲しました。
しかし城の四方が沼に囲まれていてなかなか進軍できません。
そこで、いっそ水攻めすれば?と思い立ちます。
忍城がよく見えるこの丸墓山古墳の頂上に陣を張り、周囲に堤を築きました。
「石田堤」がそれです。
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出典:wikipedia
しかし利根川や荒川の水を流すと決壊し、水攻めは失敗に終わります。
が、小田原城が落城したことで、忍城も降参するしかありませんでした。
二子山古墳
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2つの山のように見えるのでついた名前です。
墳丘長132.2メートルの前方後円墳で、武蔵国の中で最大級。
平成25年~30年に発掘調査が行われた際、出土した埴輪の9割が円筒埴輪でした。中でも鹿の絵が描かれた円筒埴輪は埼玉県では珍しい作例です。
土器は、須恵器の杯と土師器(はじき)の高坏が主流です。須恵器の生産地はさまざまで、中には大阪と思われるものもあります。
全国から物資を集めることができる、どれほど強い権力を持っていたのでしょう。
稲荷山古墳
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墳丘主軸長120メートルの前方後円墳で、さきたま古墳群の中で一番最初に作られました。
大きな古墳によくある、二重濠になっています。
昭和43年の発掘の際、全長73.5センチの「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」など多くの副葬品が出土しました。「金錯銘鉄剣」には115文字の金象嵌の銘文が刻まれています。その内容は
「辛亥年」(471年)に「ヲワケの臣」が「杖刀人首」(「杖刀人※」のトップ)として「ワカタケル大王」(第21代雄略天皇)に仕えていたんですよ、すごいでしょ?
というようなことらしいです。
雄略天皇が埼玉まで支配していたとなると、中央集権が進んでいたことの証明になり、古代史の史料して貴重ですね。
で、「ヲワケの臣」とは誰ですか?
この鉄剣を作った人が「ヲワケの臣」ということらしいんですが、中央軍事氏族の阿倍氏一族とする説と、場所からして武蔵国の豪族だろうという説があるそうです。
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https://artsandculture.google.com/story/-wVRNOAGEvhjLQ?hl=ja
<拡大>
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https://artsandculture.google.com/story/-wVRNOAGEvhjLQ?hl=ja
昭和58年に国宝に指定され、「県立さきたま史跡の博物館」の国宝展示室に展示されています。
※杖刀人(じょうとうじん)=刀剣で武装した人、という意味で、軍事的官僚と考えられています。
鉄砲山古墳
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墳丘長107.6メートルの前方後円墳。
二重濠の外側に、さらに堀があった(一部)ことが確認されており、三重濠だとすると、全国でも多くはありません。
後円部に横穴式石室があることがわかっています。石室の前に、底に穴のあいた須恵器の瓶が2つと、逆さになった土師器の高坏が6つ出土し、なんらかの祭祀が行われたと見られています。
また鉄砲玉や演習場の絵図が出土したことから、江戸時代の終わり頃、忍藩が砲術演習場としてこの場所を利用していたことがわかり、鉄砲古墳という名前がつきました。
<鉄砲玉>
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『全国遺跡報告総覧』文化財動画「鉄砲山古墳」
将軍山古墳
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全長90メートルの前方後円墳。墳丘に埴輪列が一周まわっています。
石室に使われた石は、2種類あり、1つは千葉県富津海岸付近のものと想定されています。
出土品の中にある、馬冑※1や蛇行状鉄器※2は、古代朝鮮半島にあった高句麗区の騎馬兵の装備の1つです。
また銅鋺は、回転台で削って薄くした青銅製の鋺で、中国か朝鮮から渡来しました。
※1 馬冑(ばちゅう)=馬の頭部を守る鉄製の冑。日本国内では「和歌山県和歌山市大谷古墳」と「福岡県古賀市船原古墳」の3例しか出土していません。
※2 蛇行状鉄器=旗指物を付ける金具。旗指物は、戦国時代以降の武士が、戦場で身につけていた旗のことです。
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瓦塚古墳
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全長73mの前方後円墳です。
墳丘の西側のくびれ部付近には、造出しと呼ばれる突出した部分があり、ここから須恵器が大量に出土しています。
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墳丘からは、人物埴輪、動物埴輪、水鳥埴輪、家型埴輪など多数出土しています。
人物は、琴を弾く男子や馬を引く男子、首飾りを付けた女子など様々で、当時の服装や髪形、祭りの様子などをうかがい知ることができます。
明治時代に、近くに瓦を作る職人が住んでいたことからこの名前が付きました。
と、「さきたま古墳郡」の中から主だった古墳それぞれの特徴や差異を、付け焼き刃で調べてみました。
一番知りたいのは、誰のお墓か、ですが。
従来説では「武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)」が有力のようです。
「武蔵国造」って誰ですか?
『日本書紀』に、534年、武蔵国造笠原直使主 (かさはらのあたいおみ)と同族の笠原直小杵 (おき)とが、国造の地位をめぐって対立したことが書かれているそうです。
ふうん。
でもいろいろ考えると※、ローカル豪族じゃなくて、中央から王命をうけて派遣された豪族(安倍系)が、武蔵国で権力をふるったんじゃないか、亡くなったあとにこのお墓が作られたのだ、という説もあるそうです。
ふうん。
結局のところ、古墳とか寺院とか、権力の誇示だし、庶民のお金と労力の浪費ですよね、明日から古墳作れって言われたら、ぜーったいイヤだわ。
埴輪や刀剣を作った職人さんはすごいと思うけど。
※いろいろ考えると、の部分にご興味のある方は、こちらのサイトを御覧ください。
北本デジタルアーカイブス「ワカタケル大王」と「ヲワケの臣」
カバー写真:筆者撮影。稲荷山古墳(たぶん。方向音痴なのでよくわからないんです)
<参考資料>
埼玉県立さきたま史跡の博物館webサイト
https://sakitama-muse.spec.ed.jp/
行田市webサイト
https://web.archive.org/web/20160426020006/http://www.city.gyoda.lg.jp/15/04/12/meisyo/osizyou/rekisi.html
埼玉古墳群散策ガイド「鉄砲山古墳」
https://sakitama-sansaku.spec.ed.jp/ja_k08
文化遺産オンライン「銅鋺」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/442494
奈良文化財研究所 『全国遺跡報告総覧』文化財動画「鉄砲山古墳」
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/video/11
ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons)
File:将軍山古墳 (行田市) 出土 蛇行状鉄器
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:%E5%B0%86%E8%BB%8D%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3_(%E8%A1%8C%E7%94%B0%E5%B8%82)_%E5%87%BA%E5%9C%9F_%E8%9B%87%E8%A1%8C%E7%8A%B6%E9%89%84%E5%99%A8.JPG?uselang=ja
北本デジタルアーカイブス「ワカタケル大王」と「ヲワケの臣」
https://kdas.jp/detail_display.php?t_cd=1&acc_cd=1&aclc_cd=30&chap=1&hp_page=2&bc_cd=1
ジャパンナレッジ『武蔵国造の反乱』
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1936