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瑞穂町郷土資料館 けやき館(2)


出典:大多摩「観光情報」webサイト


所在地:東京都西多摩郡瑞穂町大字駒形富士山316番地5
アクセス:JR八高線箱根ヶ崎徒歩20分
訪問日:2024年4月6日

<瑞穂町の民俗>

民家
一般的な農業を営む民家の実物大レプリカです。
靴を脱いであがれます。
 だるまが気になりますね、後述します。

囲炉裏は瑞穂では「ユルリ」と発音されていました。ユルリが古語で、「囲炉裏」は近世の江戸言葉で文人たちが広めたのではないか、と考えられています。

筆者撮影


復元しているのは、薄いサーモンオレンジの網掛け部分です。
ザシキからカッテを写しました。

意外と広い(落語に出てくる長屋などと比較して)という感想を持つものの、家は衣食住の場であり、かつ仕事場でもありました。
当時は出産も介護も看取りも家でしていました。産湯を使わせ、棺桶に収める前に「湯灌」する場でもあり、そう考えると広いとは言えないかもしれません。

ザシキには「ハタシ(機織り機)」が置かれています。

朝から一日中陽のあたるよい場所に置かれていたそうです。
それだけ大切であり、毎日使われていたのですね。

織物は養蚕と並んで、大陸からの帰化人により伝習した女性の作業でした。武蔵国には奈良時代に伝わったと考えられています。
徳川家康は家臣たちに「出陣の留守には妻に機織りをさせ生計の助けにせよ」と指示を与えています。
武家社会でも、女性が機織りをしていたんですね。

農家では自宅用の衣料は女性が作り、機織りや糸車はどの家にもありました。
多摩地区では、機織りが内職として換金生産の手段となり、江戸中期から産業として発展しています。

<更に詳しい村山織物のヒストリー>
ご興味のある方だけお読み頂ければ幸いです。

享保時代(1720頃)、多摩地区では青梅を中心に、絹と綿を使用して織った(絹綿交織)縞もよう「青梅縞」の需要が高まり、瑞穂でも市場へぽつぽつ売りに出していたことが地誌に残っています。

文化時代(1800年代初頭)に「村山絣」と呼ばれる木綿の紺絣が織られるようになり江戸時代に発展します。
「村山絣」は埼玉県所沢の市で売られていたために「所沢飛白(かすり)」と呼ばれていました。現在、この技術は継承されていません。

明治時代、木綿の「村山絣」と、絹織物の「砂川太織」、さらに群馬県伊勢崎市の「板締め染色」の技術を駆使して、村山大島紬が登場しました。

昭和8、9年に村山大島紬は全盛期を迎えます。
戦中に一時期落ち込みますが、高度経済成長期には普段着として普及し、その後一気に衰退。
昭和42年(1967)に村山大島東京都指定無形文化財に指定されました。

奄美大島を産地とし、高級絹織物の代名詞として知られる大島紬。
そのブランド名を冠する村山大島紬は、大島紬と同じ生糸を用いた織物で、現・東京都武蔵村山市周辺を産地とする。絹糸を泥染めするなど、手間のかかる大島紬に対し、村山大島紬は文様を彫刻した板※で絣糸を染める板締め染色法を確立。大島紬と似た風合いながらリーズナブルな着物を生み出し、広く庶民に愛用された。最大の特徴は、精巧な絣模様である。絣とは、染めた経(たて)と緯(よこ)の絣糸を寸分の狂いなく柄合わせしながら、織機で模様を織りなしていく織物。

出典:東京都産業労働局公式webサイトに※印を加筆

※文様を彫刻した板

出典:『みずほを学ぶ村山大島紬』


村山大島紬は私も譲り受けたものを持っていますので、ご紹介します。

着物(袷)

拡大。
経糸、緯糸、地糸、絣糸、全部で4種類の糸で織られています。
よおおおおく見ると…、うーん、わかるようなわからないような。
でも経糸と緯糸の2本でないことはわかります。



多摩だるま

だるまの生産地は全国に分布しますが、関東地方では群馬県高崎市の「豊岡だるま」(高崎市のだるまは「だるま弁当」で有名)と、埼玉県越谷市の「越谷だるま」そして三多摩地区の「多摩だるま」が有名です。
この3つを総称して「東京だるま」と呼びます。


現在、多摩だるまを作っている家は8軒で、そのうちの5軒が瑞穂町にあります。
だるま作りで使用する「木型」は、各家独自のものを使い、だるまの顔も家によって異なります。
これなんか可愛いですね。おしりたんていみたい。

筆者撮影


だるまの由来は禅宗の開祖『達磨』と言われていますが、江戸時代に子どもの疱瘡除けのおまじないとして流行しました。
瑞穂町では明治時代から始まり、農閑期の副業でした。
現在では、片目を入れて願い事をし、成就したらもう片方に目を入れる、という信仰が主流ですが、瑞穂町では神棚に祀って拝んでいました。
転んでも起き上がるの「あがる」と、養蚕の「あがり」※が結びついて、養蚕の守り神としての性格が強かったようです。

※「あがり」
蚕が4回脱皮して繭を作る段階になると(上蔟)、白いお団子を作って、繭玉の形にして木に挿し、蚕棚に飾っていました。蚕は「繭玉をまねて良い繭をつくる」との謂れから、おまじないようなものです。これを養蚕上がりといいます。


東京狭山茶

瑞穂町は現在、都下第一のお茶の生産地です。

太田道灌が江戸城を作った頃、今の日本橋あたりに月3回の市が立ちました。そこで売られていたのは日立(現茨城県)のお茶でした。
徳川家康が江戸に入った頃は、駿河(現静岡県)や宇治(現京都府)を中心に高級茶が流れ込んできました。
そんな中でたまーに求められた粗茶が、ここ瑞穂町のお茶であり、
「へそが茶を沸かす」というときのお茶は、これら低級のお茶をさすのでした。(そうだったのか)

その粗茶を、改良に改良を重ねたものが、狭山茶です。

茶摘み
毎年新茶の季節になると、鮮やかな緑色の新芽を摘む茶摘みが行われます。
学校では数日程度の茶摘み休みがあり、子どもたちは幼いうちから茶摘みの仕方を習って、大人とともに茶摘みに精を出しました。

展示説明パネル
着ている着物はまさに村山絣?

蒸す

展示説明パネル

揉む

選別

展示説明パネル


火入れ
茶葉を助炭に入れてよくかき回しながら乾燥させます。こうすることで香り高く仕上がるとともに、長期保存が可能になるのです。

展示説明パネル

完成した茶は、茶甕や茶箱に入れられ、貯蔵または出荷されました。


民俗編はここまでです。
次回は番外編です。

長らくお付き合い頂きどうもありがとうございました。

間違いなどございましたらコメント欄よりお知らせくださいますようお願い申し上げます。

<参考資料>
『瑞穂町史』瑞穂町史編さん委員会 昭和49年発行

東京都産業労働局公式webサイト「村山大島紬」
https://www.dento-tokyo.metro.tokyo.lg.jp/items/01.html#gsc.tab=0

『みずほを学ぶ村山大島紬』 瑞穂町教育委員会 令和4年(2022)発行


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