画鬼河鍋暁斎✕鬼才松浦武四郎
写真撮影は、可のブースが2箇所と、不可のブースが2箇所です。
各所にある館内図で確認できます。
『武四郎涅槃図』
なにはともあれ一番見たかった絵は、こちら。
巨大な絵だと思っていたので、それよりは小さかったです。
それでも私の身長くらいの長さはあります。
152.6センチ✕84.2センチ
『武四郎涅槃図』 重要文化財 明治19年(1886) 松浦武四郎記念館
変な人で有名だったらしい暁斎ですが、武四郎は輪をかけて変な人だったのかもしれません。
自分をお釈迦様に見立てて、涅槃図を描けなんて。
そのために武四郎は、寝ている自分の絵を暁斎にスケッチさせたそう。
愛用の丹前を着て、自慢の大首飾りをかけ、腰には愛用していた「火用心」の煙草入れ。
右手を枕に、左手を腰の位置に、入滅する釈迦を真似ながら、武四郎の顔は満足そうに微笑んでいます。
足をさすりながら泣き崩れている黒紋付の女性はご夫人です。
背後の赤い雛壇に飾られているのは、武四郎コレクション。
主に像です。
欲しいものがあると「くれくれ」と相手が根負けするまでしつこく言うので、「乞食松浦」と古物コレクターの中では呼ばれていたそうです。
買うんじゃなくてもらうんだ?!
コレクションの一部は、展示されていました。
松浦武四郎は『撥雲余興』というコレクション帳をつくり、河鍋暁斎に絵を描かせていたそうです。
『武四郎涅槃図』は、制作に6年もかかりました。
注文当初、武四郎はちょんまげを結っていたのですが、制作途中で断髪し、絵の髪型も変えるように注文をつけました。
正直、暁斎はこの絵を描くモチベーションはそれほど高くなかったようです。
そこで武四郎は、暁斎に「月2回は松浦邸に参上します」「涅槃図が完成しなかった場合はいただいた師宣の屏風を返納します」といった内容の念書を書かせました。
暁斎が絵日記の中で、武四郎のことを「松浦老人いやみ」と記したのは、こんなこともあったからでしょうか。
いろいろなモチーフをいろいろな技法で描いた河鍋暁斎ですが(画家の多くはそうだと思いますが)、この絵には大和絵、浮世絵、狩野派、中国神仙画あたりの技法が混在しているような気がします。
(流派や画法に詳しくないので、あくまで私の感覚ですが)
色付きの天上はもちろん美しいですが、スケッチのように墨一色で描かれた人物像のうまいこと。
松浦武四郎
三重県松阪市出身。幕末から明治にかけての探検家です。
28歳より13年間にわたり、蝦夷地を6度にわたり探査し、『初航蝦夷日誌』『再航蝦夷日誌』『石狩日誌』『知床日誌』など多くの地図や記録を著しました。アイヌの人々と交流を深め、アイヌの人々との共存を主張しています。
維新後、蝦夷地に変わる地名をいくつか提案し、その中の「北加伊道」から「北海道」に決まったことで、北海道の名付け親と言われています。
「加伊」はアイヌの人々がお互いを呼び合う「カイノー」が由来で、人間という意味です。
そこには松浦武四郎のこんな気持が現れているのでしょう。
でも明治政府はそれを「海」にしたんですね。
菅原道真公と観音さま
暁斎と武四郎の共通点の1つは、ふたりとも菅原道真公と観音さまを篤く信仰していたことです。
『野見宿禰図』 明治17年(1884) 松浦武四郎記念館蔵
野見宿禰は垂仁天皇の皇后がなくなったとき、殉死のかわりに陵墓に埴輪をたてることを進言し、土部臣(土師臣)となりました。
土師氏の中から菅原姓を名乗るものが出てきて、その末裔が菅原道真公だと言われています。
この絵は武四郎が天満宮に奉納するために暁斎に発注したことが、誓約書からわかっています。
暁斎は明治14年頃から、毎日観音さまを描き、近所の湯島天神、浅草観音堂、護国院などに、毎月奉納していました。
ところで「暁斎」は「ぎょうさい」だと思っていたのですが「きょうさい」なんですね。
というのも、もともとは「狂斎」を名乗っていました。
「狂」にはネガティブなイメージがありますが、「鬼可愛い」と言ったら「すごく可愛い」という意味があるように、尋常ならぬ、ことを意味するポジティブな場で使われることもあります。
葛飾北斎もみずから「画狂人」と名乗っていたことがありました。
その「狂斎」から「暁斎」に変わったのは、政治批判したとして投獄され、放免になってからでした。
河鍋暁斎についても書きたいのですが、2000字を超えましたので、またいつか。
<参考資料>
松浦武四郎記念館公式webサイト
https://takeshiro.net/about
『週刊武四郎』第9号 松阪市 2018年発行
『週刊武四郎』第12号 松阪市 2018年発行
更科源藏著『松浦武四郎の生涯』淡交社2018年
狩野博幸・河鍋楠美共著『反骨の画家 河鍋暁斎』 新潮社 2010年