旧吉岡家住宅 庭編
前回、主屋とアトリエをご紹介しました。
今回はお庭です。
庭にも国登録有形文化財が3つあります。
1)長屋門(ながやもん)
吉岡家住宅へ入るには、まず長屋門をくぐります。
吉岡堅二氏が引っ越してきたときにはなかったもので、お隣りの市で不要になったものを移築しました。
仲の良い棟梁から、こんな長屋門があるけど、要らない?と持ちかけられたようです。
犬が子どもを産んだから、要らない? くらいの感じに、門のやりとりがあったのでしょうか。
長屋門はもともと武家屋敷の門でしたが、明治時代になると豪農でも作られるようになりました。
なぜ「長屋門」と言うのでしょうか?
門の両側に小さな部屋を作って、門番や家臣や使用人が暮らせるようにしたからです。
農家では、納屋、作業場などとして使われていました。
4畳半くらいの広さでしょうか。
東大和市市内に「長屋門」は2棟あり、1つはここ、そしてもう1つは、「魔性院」と読まれる方が多発した、あの「慶性院」です。
扉の取っ手がこんな形。
拡大すると、
これが乳房に見えた方は正常な目をお持ちです。
なぜならその名も「乳鋲」
現在も寺院の門に多く見られます。子孫繁栄を願っているのだとか。
表札は吉岡堅二氏の手作りです。
豪華な門のわりにシンプル。
日本画の画材である白の胡粉を板に塗り、墨で文字を書いたと思われます。
2)蔵
「藤」の文字は、かつての持ち主・池谷藤右衛門(いけやとうえもん)さんの「藤」です。
蔵って、農家にとって大事だったんでしょうね。
「蔵が立つ」と言えば、お金持ちになることですし、縄文時代にはなかったと言われる階級差が弥生時代に生まれたのも、農作物を貯蔵できる人とできない人との間に貧富の差が生じたからだとか。
明治17年に建てられたときは、土蔵でした。
関東大震災で外壁が崩れたため、木造モルタルに改修したと考えられています。
石造のように見せていますが、コンクリートです。
下3段だけ色が変わっているのがおわかりでしょうか?
この部分はモルタル洗い出しという技法を使っています。
モルタルに石の粉を混ぜて塗り、完全に硬化する前に、ブラッシングします。するとモルタル部分が流れ、中の石の粉が浮き立ちます。
御影石に見せかけるための手法だそうです。
近くで見れば素人目にもわかっちゃうけど、塗っているのが。
扉が重厚でかっこいい。
観音開きですが、今、動かすことはできません。
内側にもう1枚、開閉できる引き戸があります。
広さは約10坪。
中を見ると、木造なのがわかります。
はしごがあり、2階へ上がれるようになっていますが、耐震が弱いため、公開日に2階へあがることはできません。
3)中門
長屋門を移築してくる前、正面にもとからあった門です。
個人の民家の門なら、このくらいがちょうどよいですよね。
長屋門に比較すると、小さいし質素ですが、あなどるなかれ、
屋根が、起こり(むくり)のある切妻造りになっており、大工さんの腕の見せどころなんだとか。
こんなふうに、弓なりに湾曲しています。
この門をくぐると何があるかといいますと、もう1つの庭です。
3坪程度あり「坪庭」と言うそうです。
これまでご紹介した、どの写真をご覧頂いても、樹木で覆われているのがわかると思います。
もともとは屋敷林として植樹されていました。
五葉松、けやき、イロハカエデ、ザクロ、シラカシ、トルコあんず、桜、白木蓮、黒竹、さつき、柿、お茶などなど、植物をご覧になるためにいらしてくださる方もいますし、パワースポットして訪れてくれる人も多いです。
お家の庭に指定樹木があるなんて、すごい。
さて、公開日当日、私が何をしていたかと申しますと、ほぼお庭でワークショップを担当していました。
今年は『植物染め体験』です。
吉岡家の庭にある「茶」「桜」「つつじ」の3種類を染料にして、障子紙を染めていただくワークショップを開催していました。
ミントグリーンのTシャツはユニフォームで、前面のプリントは吉岡堅二氏の絵です。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
画伯吉岡堅二についてもおいおいご紹介したいと思います。
<参考資料>
岡田隆太朗氏「照り起こりとは?妻と平とは?」大和モダン建築webサイト
https://nara-atlas.com/term/japanese/4391/