空爆の町『シリアの戦争で、友だちが死んだ』 無料公開⑥ 戦場ジャーナリスト・桜木武史× 『ペリリュー 楽園のゲルニカ』・武田一義
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第六章で、桜木さんが向かったシリア・アレッポは、まさしく戦場。これまでに訪れた町とは比べ物にならないほど荒廃していて…。
この本を読むことで、あなたの戦争に対する考え方も変わっていくかもしれません。ぜひ、コメント欄やTwitterで感想を教えてください。
■第六章 空爆の町
日本人ジャーナリストが亡くなった町
1回目のシリアでの取材から帰国してすぐ、ぼくはまたトラックの運転手をしながら取材費をかせぐ生活に戻っていた。シリアのニュースを日本で耳にすることはあまりなかったが、ぼくは流れるラジオをぼーっと聞きながら、「つぎはいつシリアに行けるかなあ」と考えて、仕事をしていた。そんなとき……。
「シリアのアレッポで取材中のジャーナリスト山本美香さんが、戦闘に巻きこまれて死亡──」
突然ラジオから流れてきたニュースに、ぼくは驚いた。お会いしたことはなかったが、山本美香さんは世界各地の戦場をわたり歩いている有名なジャーナリストだ。
ニュースでは、山本さんが取材のためアレッポという町に入り、そこで戦闘に巻きこまれたと報じられていた。
アレッポでは、アサド大統領側の『政府軍』と、それに対抗する反体制派の『自由シリア軍』が衝突している。
それまでもシリアでは、海外のジャーナリストがたくさん犠牲になっていたが、まさか日本人、しかもベテランの山本美香さんが亡くなるなんて……。山本さんの死にショックを受けたのはもちろんだが、そのいっぽうで、こんなこともふと頭にうかんだ。
「山本さんはどうやってシリアに入ったんだろう。もしかしたら、どこかにアレッポの町へと入るルートがあるのかもしれない……」
そのとき、ジャーナリストの仲間からは、シリアに入国するのは相当むずかしいと聞いていた。そもそも、取材でも観光でもシリアに入るためにはビザが必要だけど、戦争がはげしくなり、ビザはほとんど発給されていない。でも、山本さんはアレッポで取材をしていた。アレッポの位置を地図で確認すると、そのすぐとなりにはトルコがある。国境に向かえば、何か糸口がつかめるかもしれない。
山本さんが亡くなる直前まで撮影していた映像が、テレビで放送されていた。そこには戦争の中でも何とか自分たちの暮らしを守ろうとするふつうの人々の姿が映っていた。アレッポが、そしてシリアが今どうなっているのかを、自分の目でもう一度見たい。
こうしてぼくは、2012年10月、トルコに飛んだ。シリアとトルコは約900キロにわたり国境が接している。その中にいくつか国境の検問所が設置されていて、そこからシリアに入ることができる。アレッポにつながる検問所を探すと、一番近いところがキリスという町にあった。ぼくはイスタンブールからバスを乗りついで、丸一日かけてトルコの南にある小さな町キリスに到着した。
シリア入国
トルコからぼくを乗せてくれた陽気な運転手と別れ、トルコ側の検問所をまずは通過する。そこからしばらく歩くと、シリアとの国境のゲートだ。ここをきっと山本美香さんも通ったんだ……。そんなことを思いながら、ぼくは大きく息を吸いこみ、「よし、行くか!」と自分自身をはげました。
結果、シリアへの入国は案外あっさりできてしまった。ビザもないのに、なぜこれほど簡単に国境を通れたのか。その理由は、自由シリア軍が国境を押さえていたからだった。
ビザが必要なのは、アサド政権が支配する地域だけだ。自由シリア軍は、パスポートさえあれば、誰であろうとこころよくむかえ入れてくれた。海外からのジャーナリストやカメラマンもいれば、義勇兵、つまり自由シリア軍に加わりたいという外国人もたくさんいた。
無事にシリアに入れたことにひとまず安心した。だが、ここからがぼくにとっての仕事の始まりである。ニュースでは耳にしていたが、現地に来てみると、その光景に圧倒され、思わずゴクリとつばをのみこんだ。国境からシリアのアレッポに向かう道中では、破壊された建物や焼けこげた戦車が放置され、はげしい戦闘が行われていたことがひと目で分かる。すれちがう車にはシリア人がぎゅうぎゅうにつめこまれている。どうやらアレッポからにげてきている人たちのようだった。ところどころに自由シリア軍の検問があり、するどい目つきで周囲を警戒していた。
トルコからシリアへと入って1時間も経たないうちに、空気がガラッと変わった。そこはまさしく戦場で、ぼくが半年前に見た反体制派の町ドゥーマとも比べ物にならないほど荒廃していた。
国境からアレッポまでは車で2時間ほどかかった。戦争が起きる前は、1時間もかからなかったと運転手はぐちをこぼした。なぜそんなに時間がかかるのかとと、爆弾で道路が破壊されてしまい、遠回りをしないといけないという理由がひとつ。もうひとつの理由は、政府軍が支配する場所をさけて通らないといけないからだった。アレッポ周辺は政府軍と自由シリア軍の支配地域が複雑に交ざっていた。アサド政権から見れば、ぼくはビザも持っていないし、不法入国者だ。日本の戦国時代のようにシリアは各勢力で分断されていた。
ちなみにタクシーの料金は100ドルだった。これは戦争前の料金の5倍から6倍の値段だが、運転手も命がけでアレッポに客を運んでいるのだから安いものかもしれない。
2時間ほどそんな道を行くと、大きな建物が遠くの方にちらちらと見えてきた。運転手が「アレッポだ」とぼくに言った。その途端、車が速度を上げた。運転手に理由を聞くと、この道路を挟んで政府軍と自由シリア軍がにらみ合っているという。ノロノロと運転していると、戦闘に巻きこまれたり、まちがえて撃たれてしまう。ぼくは車の窓からすぐに顔を離して、座席の下にもぐりこんで身をかくした。
アレッポの町
アレッポに到着し、ぼくはホッと胸をなでおろした。
だが、そんな気持ちもすぐにふき飛んでしまった。町中のどこにいても、銃声が四六時中鳴りひびいていた。土地勘もないままうろうろとしていると、銃声とはちがう、空気をドカンと震わせるような巨大な爆発音がした。ぼくはあわてて、近くの小さな商店ににげこんだ。そこにいたおじさんは、突然飛びこんできた日本人にびっくりした様子だった。しかし、ぼくがジャーナリストだと分かるとニッコリと微笑んで、紅茶を一杯さしだしてくれた。
「あんた、アレッポは初めてみたいだね。そんなに驚くことはない。すぐになれるさ」
おじさんの言葉や態度は戦場にいることを一瞬だけ忘れさせてくれた。どんな状況でも温かくむかえ入れてくれるシリア人の優しさは、ここアレッポでも変わらなかった。ホッとして、アツアツの紅茶に口をつけたとき、すごい音を立てて戦闘機が上空を飛び去った。先ほどの巨大な爆発音はどうやら戦闘機が撃ったミサイルが着弾したときのものだったようだ。
「毎日、アサドの野郎は何十発もの爆弾を空から落とすんだ」
おじさんは澄んだ青空を見上げて、ため息をついた。
アレッポで武装蜂起が起きたのは7月下旬で、このときが10月末。たった3か月でアレッポは粉々になってしまったことになる。無傷の建物はほとんどなく、どの建物も窓ガラスが割れ、銃弾で壁は穴だらけ。市街戦のはげしさが見てとれる。7、8階だての建物は、空爆で崩れ落ちてしまっていた。おじさんはなつかしむようにぼくに語りかけた。
「信じられないかもしれないが、アレッポはきれいな町だったんだ」
シリアで民衆によるデモが起こる前、アレッポは中東で最も人気がある観光地のひとつとして知られていた。アレッポ城がどっしりと町を見下ろすように丘のいただきにそびえたち、その上からはどこまでも広がる、にぎやかなスーク(市場)を見わたすことができたそうだ。はるか昔から商業の町としてとてもゆたかで、大勢の人種や民族、宗教の異なる人たちが集まった。
それが今では見る影もない。住民も大半がにげ出してしまった。ドゥーマのときのように、スナイパーがひとりひとりの命を奪うのとはちがう。空爆では一気に50人、60人の命が消えてなくなってしまうのである。そう思うと、ドゥーマでぼくが見たときとは、戦争のスケールが変わってしまったのは明らかだった。
何もかもが足りない病院
それから、ぼくはメディアセンターという施設に泊まりつつ、取材を始めることにした。外国から来た多くのジャーナリストやカメラマンがこの施設を利用していた。アレッポは東西に分かれ、西はアサド政権、東は自由シリア軍に支配されていた。東の地区のホテルすべてが廃業しているため、メディアセンターが宿泊施設として用意されていた。
メディアセンターでは泊まる以外にも、通訳やガイドをたのむことができて便利なのだが、相場が一泊100ドルから300ドルで、お金があまりないぼくには高く感じられた。少しでも費用を抑えるために、ガイドが必要ない取材テーマを探し、メディアセンターから歩いて行ける病院を見つけた。
病院の名前は「ダル・シファ総合病院」。5階建てのそれなりに大きな建物だった。ぼくが訪れると病院の中はいつも忙しそうで、血だらけの人たちであふれていた。いつ死んでもおかしくない重傷の患者が次々と運ばれてきたが、軽い応急手当てしかできない。ベッドも足りていないようで、床に寝かされている患者が大勢いた。待合室も負傷者であふれかえり、ぼくはその場の空気にたえ切れず外に出た。
「我々だけではとても間に合わない。人手も設備も不足している」
手術室から出てきた医師のオスマンはぼくの存在に気がついたのか、声をかけてくれた。この病院の医師は、わずかふたり。あとは看護師と、ボランティアとして医療補助をしているスタッフが10人ほどいるだけである。
さらに、1日の大半は停電し、自家発電でなんとか医療機器を動かしているが、それほど長くは使えない。水道管も空爆で破裂しているため、蛇口をひねっても水は出ない。しかたなく井戸水を使うのだけど、清潔ではないので患者は感染症に悩まされていた。
そんな厳しい環境でも、オスマンは懸命に人の命を救おうと、寝る間もおしんで働いていた。
「病院は政府軍にとって格好の標的なんだ。我々医師は、市民だけでなく戦闘員の手当ても行う。戦闘員を100人殺すより、医師をひとり殺した方が効率がいい。政府軍はそんな卑劣な連中さ。この病院も、何度も空爆の被害を受けている」
毎日のように病院に顔を出していたぼくには、オスマンがつぶやいたこの一言が胸に突きささった。
たしかに、この病院には戦闘員が数多く運ばれてくる。爆弾でふき飛ばされたのか、手を失った自由シリア軍の戦闘員が飛びこんできたこともあった。迷彩服をまっ赤に染めて、意識のないまま運ばれてくる若い戦闘員も見かけた。
病院だと知っていて攻撃をすることは、国際的に定められたルール、国際法でも禁じられているはずだった。それがシリアではまったく無視されていた。政府軍は、堂々と爆弾を病院に落としていた。あまりにもひどいじゃないか! と怒りがこみあげてきた。でも、そんな救いがない状況でも、オスマンは決してアレッポを離れようとしなかった。
「医師の仕事は人の命を救うことだ。わたしがいることで助かる人たちが、ここには大勢いる。わたしはひとりの医師として最善をつくしたい」
爆弾がいつ頭上に落ちてくるか分からない中、オスマンは力強い言葉をぼくにぶつけた。シリアの多くの医師は、戦闘がはげしくなり、安全な他の国へとにげ出していた。もちろん、かれらを非難することなんてできない。病院がねらわれるような場所に留まる医師がいる方が不思議なのである。それでも、死ととなり合わせの環境でも必死で治療にはげむ、オスマンのような医師はいた。
オスマンと話している間にも、次から次へと負傷者が運ばれてくる。治療の甲斐もなく息を引きとった若者が床の上で寝かされ、その横には父親らしき男性が途方に暮れていた。
取材を始めてからわずか1か月後、この病院が政府軍の戦闘機から発射されたミサイルによってくずれ落ちた。
オスマンは無事だったが、犠牲になった40人以上の死者の中には、オスマンと共に働いていた若い医師、モハメド・アガもいた。かれは空爆される直前まで負傷者の治療に当たっていたという。
戦場の通学路
ドーン! ドーン!
その日も、ぼくは砲弾が爆発する音で目が覚めた。ぼくも、多少の爆弾の音には動じなくなっていた。ゆっくりとベッドから起きあがり、朝ごはんを食べようと外に出た。その時、爆弾でボロボロになった建物の横を子どもたちが無邪気に歩いているのを見かけた。小さな体には不つり合いな大きなリュックをせおって、数人の子どもたちが笑いながら、ぼくの横を小さな歩幅でゆっくりと通りすぎていく。
「どこに行くの?」
ぼくは習いはじめたばかりのアラビア語で子どもたちに聞いてみた。
「マドラサ(学校)に行くんだよ」
聞きまちがいではないだろうかと目を丸くした。日本では当たり前のように目にする通学の風景かもしれないが、ここは戦争をしている国、シリアだ。しかも、激戦地ともいえるアレッポである。
ここで暮らしていること自体が異常なのに、学校で授業が行われているなんて信じられなかった。ぼくは子どもたちの後ろにくっついていって、学校を見せてもらうことにした。
到着した4階建ての大きな建物の中では、子どもたちがはしゃいでいた。
ろう下の壁には子どもたちがペンキで絵を描き、教室の中には机と黒板がある。日本の学校より物が不足しているからか少しさびしい気はするが、日本人のぼくを見ると、何十人という子どもたちが興味を持って近寄ってきた。
気がつけば、小学生の男の子や女の子に囲まれて身動きが取れなくなっていた。ぼくがまごまごしているところに、先生であろう男性がかけ寄ってきて何やら大声で言うと、子どもたちは楽しそうに教室へと散っていった。
せっかくなので、ぼくは気になることをこの男性に聞いてみた。なぜ戦争をしているのに、それもこんな激戦地で、ふつうに学校を開いているのかという素朴な疑問。
男性は少し考えてから、こんなことを言った。
「外に出れば、爆弾が落ちてくるかもしれない。スナイパーに撃たれるかもしれない。だから、ふだん子どもたちは家の中でじっとしているしかない。それは子どもたちにとって、とても大きなストレスなんだよ。だから、何て言えばいいのか──」
男性はしばらく考えて、こう続けた。
「学校は子どもたちにとってはかけがえのない場所なんだ。勉強するためだけじゃない。学校は友だちと会うことができる数少ない場所なんだ」
男性の説明を聞いて、子どもたちの楽しそうな仕草や表情を思い出して、ぼくは納得した。悲惨な現場ばかりのアレッポで、ここにいると不思議と安らかな気持ちになる。爆弾の恐怖におびえて家でじっとしているなんて、元気がありあまる子どもたちには苦痛でしかないだろう。そんな苦痛を和らげているのが学校だった。しかし、男性は暗い顔をしてこんなことも言った。
「先週は40人いた子どもたちが、今週は35人になっていたりする。残りの5人はどこに行ったのか。町からにげたのか。それとも命を落としたのか。どちらかだよ」
それを聞いて、ぼくはやはりここは戦場なんだと思い知った。子どもたちも戦争の犠牲になっている。
さらに学校も安全なわけではない。空爆の標的にされることもしばしばだった。なぜだろうか。理由は単純だった。自由シリア軍が支配する場所で暮らす人々はだれであろうとテロリストだと、アサド政権は決めつけてしまった。だから、学校だって攻撃される。
親たちは、せめて学校だけでも行かせて、安全に勉強をしたり、他の子どもたちと一緒に遊んだりしてほしいと願う。でも、そんなささやかな願いもアレッポでは通用しなかった。
机に向かう子どもたちを見ると、それは日本の授業風景と変わらない。でも、授業の間にも、絶えず銃声が鳴りひびき、ときおり上空を通過する戦闘機の音が聞こえると、子どもたちは窓際にかけ寄り、不安そうに空を見上げていた。それでも、授業は中断することなく、淡々と続けられた。戦争の中の日常がこうして流れていく。これが当たり前ではないことは分かっていても、それを止める手段がなかった。
へたなアラビア語を話す日本人がよほどめずらしかったのか、帰り際、子どもたちが学校の校門まで見送りに来てくれた。それから2年後、ぼくが再びこの学校を訪れると、建物は空爆で粉々になり、勉強机や黒板がコンクリートの下敷きになっていた。児童25人が犠牲になった。
でも、このときのぼくは、もちろんそんなことを知るはずもない。手をふる子どもたちに、ぼくは笑顔で「マア・サラーマ(さようなら)」と別れを告げた。
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©Takeshi Sakuragi, Kazuyoshi Takeda 2021