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戦争に慣れてしまわないように。村上春樹さんへの翻訳依頼に込めた編集者の想い
まさか村上春樹さんと仕事ができるなんて……!
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ポプラ社で一般書の編集をしている辻と申します。
『世界で最後の花』という本の編集を担当しました。
この本は雑誌「ニューヨーカー」の編集者で小説、漫画、児童書分野でも活躍したジェームズ・サーバーが、84年前の第二次世界大戦開戦時に描いたもの。戦争を繰り返す人類への皮肉と、平和への切実な願いが込められた「絵のついた寓話」です。翻訳は村上春樹さん。ぼくが本づくりの中で感じたり考えたりしたことを、この場を借りてお伝えしたいです。
『The Last Flower』復刊の話をいただく
『世界で最後の花』の原題は『The Last Flower』といいます。1939年、第二次世界大戦開戦時にアメリカで出版されました。日本では1983年に篠崎書林から『そして、一輪の花のほかは…』として刊行されましたが、絶版になっていました。
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2022年4月に放送されたTBS「情報7daysニュースキャスター」で、司会の三谷幸喜さんが「おすすめの本」として紹介したことからこの本はにわかに注目を浴びます。ほどなくしてエージェントからポプラ社に連絡が入ります。
「この本をご存じでしょうか? とうに絶版になっていますが、以前、篠崎書林が出版していたものです」
この時点で、すでにオファーを検討している会社もあるとのこと。
ポプラ社の児童書編集部には復刊をてがけたいという編集者がいなかったらしく、ぼくの所属する一般書の編集部に連絡がまわってきました。ぼくはこの本のことも、サーバーのことも知りませんでしたが、復刊したいとすぐに思いました。
まずイラストがぼくの好みでした。そしてその内容に心が揺さぶられました。戦争がいかに悲惨なものかということを、シンプルなイラストと必要最小限のことばで伝えているこの本のすごさを感じました。説教くささもまったくない。ウクライナ戦争が起きてから3か月後だったので、タイミングを考えてもいますぐに出すべき本だと思いました。ぜひやりたいと上司に伝えました。
オファーの締め切りは1週間後。急いでオファーの部数から、大まかな営業方針、本づくりなどの提案をまとめて(ぼくは編集と営業を兼務しています)、編集・営業それぞれの上司に相談。営業の上司もぼくの気持ちを買ってくれ、「よし、トライしましょう」ということに。数社競合の末、ポプラ社が版権を獲得することになりました。
調べれば調べるほどわかる、ジェームズ・サーバーのすごさ
あわただしいオファー準備のあと、ジェームズ・サーバーとはいったいどんな作家なのかを調べ始めました。(本来は順序が逆ですが…)
・「ニューヨーカー」で活躍していた著名な編集者であり、イラストレーター
・マンガ、小説、エッセイなど多岐にわたるジャンルで著作多数
・『ウォルター・ミティの秘密の生活』は、1947年に『虹を掴む男』として、2013年にはベン・スティラー監督・主演で『LIFE!』(見たことある!)として2度にわたって映画化
・『The Last Flower』のフランス語版の翻訳はノーベル賞受賞者のアルベール・カミュが担当
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知識が乏しいことを告白するようではずかしいですが、調べれば調べるほどすごい人物だということがわかってきました。
ウクライナ戦争への絶望
『The last flower』の原稿を読んでいるうちに、痛感したことがあります。ぼくはウクライナ戦争の報道に慣れてしまっている、いま戦争が起きていることに慣れてしまっているということです。
戦争が起きたことを知ったとき、ぼくは家でひとり、テレビの映像を見ながらソファの上から動くことができませんでした。いま、自分が生きている時代で、こんなにも簡単に戦争が始まってしまう。それを受け入れることができませんでした。しっかりはっきりと絶望しました。イラク戦争が起きたときぼくは13歳。このときは完全にひとごとでした。でも今回はぜんぜん違いました。戦争をいままででもっとも身近に感じました。妻や友人と話し、ニュースをチェックし、SNSで戦争のつぶやきを検索して眺める日々が続きました。
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でも。だんだんと慣れてしまう。あれほどテレビの前で絶望したのに、戦争の報道を見ても何も感じなくなってきているのです。こんな自分がおそろしいと思いました。
戦争の報道に慣れてしまうぼくの様子、そして戦争を始めてしまうロシアの姿は、本の内容と重なりました。戦争がどれだけ悲惨で、むごたらしいことか人間は知っているはずなのに、時間がすぎればその記憶はどんどん薄れてしまう。そして信じられないことに、また戦争が始まってしまう……。この本はまるで予言のようだと思いました。
当初はこの本に描かれるネガティブな部分ばかりに意識がいってしまい、悲観的な読み方をしていましたが、原稿を何度も読む中で、この本は「いまを生きるわたしたちへ託された希望」でもあるのだと気づきました。
本の冒頭には、サーバーの娘・ローズマリーへ捧げる1文が掲載されています。
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君の住む世界が、わたしの住む世界より
もっと善き場所になっていることをせつに願って
あらためてこの1文を読んだとき、サーバーの平和を願う気持ちが痛いほど伝わってきました。サーバーはいまだに戦争が繰り返されている世界に住むわたしたちに向かって、「あなたたちは、これからどうするのですか?」と問いかけているのだと思うようになりました。
戦争が起きてしまう時代に生きている以上、戦争は決してひとごとじゃない。いま起きている戦争は遠い国の話ではなく、「わたしたち」の話。繰り返される戦争の連鎖をとめるのはわたしたちであり、平和な未来をつくるのもわたしたちに他ならない。この本には「戦争について考える時間を与えてくれる力」が確かに宿っていました。
無謀にも翻訳を村上春樹さんに依頼する
著者もすごいし、内容もすばらしい。
でも読者に届けるには、ただたんにぱぱぱっと復刊するだけではだめなんじゃないかという思いが強くありました。また絶版になってしまっては復刊する意味がない。翻訳をどなたに依頼するかはとても重要な問題でした。
ウクライナ戦争がはじまり、あらためて「戦争」について考えるきっかけになるこの本はぜったいに必要だし、このテーマであれば、興味をもってくださる訳者の方がいるはず。平和や戦争について関心のある方にお願いしたい……。
実は、上司からこの本に興味があるか聞かれたときにすでに「村上春樹さんに翻訳を依頼したい」と言っていました。パッと村上春樹さんのお名前が浮かんだのは、ふたつの思い出があったからです。
ひとつめは大学のとき。大学2年生で履修した翻訳の授業で、「英訳された日本人作家のエッセイを日本語に翻訳しなおす」という課題がでました。すごくおもしろくて、かなり真剣に取り組みました。課題提出後、それが村上春樹さんの『走ることについて語るときに僕の語ること』だったとタネ明かしされました。そして、村上春樹さんはご自身の作品が海外でたくさん翻訳されているだけでなく、ご自身も翻訳家としてたくさんの小説や絵本を翻訳していると知りました。それから村上春樹さんの作品をよく読むようになりました。それまで『ノルウェイの森』だけは読んだことがありましたが、なんだかピンとこなかったぼくにとって、村上春樹さんの作品とのほんとうの出会いはこの授業でした。
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ふたつめはポプラ社に入社してから。このころは、もともと好きだった絵本をより積極的に読むようになっていました。そんな中で村上春樹さんの新訳でシルヴァスタインの『おおきな木』があすなろ書房から復刊されていたことを知りました。『おおきな木』(篠崎書林版)は小さい頃からなんどもなんども繰り返し読んでいた絵本ですが、一か所だけぼくには釈然としない箇所があったのです。なぜかちょっといらいらしてしまうようなところがあった。
でも、村上春樹さんの新訳では、ちょうどその箇所が違う訳になっていました。体に電気が走りました。絵本に対してぼくが思っていたことを言葉にしてくれていたのです。心のもやもやがさささぁーと晴れました。漫才のボケにこれ以上ないタイミングでツッコミが決まったような爽快感がありました。翻訳っておもしろいと思いました。(どちらの訳がよい、という話ではなく、飽くまでぼくの個人的な思い出です)
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そんな思い出もあり、なんのツテもないまま無謀にも村上春樹さんに翻訳を依頼したいと言っていたわけですが、ぼくの上司も、そのまた上司も笑うこともなく、「やめときなよ」と言うこともなく、ぼくの気持ちを全肯定、応援してくれました。これはもしかしたら会社に入っていちばん嬉しかったことかもしれません。
素直な気持ちを込めてお手紙を書き、村上春樹さんへご依頼したところ、幸運にも引き受けてくださることになりました。
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この本の装丁をお願いするなら川名潤さんしかいない
装丁を依頼するなら川名さんしかいないと思いました。
川名さんとは、ぼくが編集を担当した平野レミさんのリニューアルエッセイシリーズ(『家族の味』『おいしい子育て』『エプロン手帖』)で、一度絶版になった本を新たな装いで世に出すという仕事を一緒にしていました。装丁は文句なしに素敵で、とても信頼していました。
川名さんのSNSなどから戦争に対する関心がとても強いということもわかっていました。金原瑞人さんが作成しているフリーペーパー「BOOKMARK」の緊急特集号「戦争を考える」にもエッセイを寄稿していらっしゃった。だから依頼はまったく迷いませんでした。
カバーデザインラフの第一弾は、黄色と緑色のとてもさわやかで、フランス版の装丁に近いものでした。とっても素敵だったのですが、やや修正していただくことにしました。
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カバーイラストに使われているこのシーンは、戦争が起きて「町も、都市も、村も、地上からそっくり消えて」しまった中で、若い娘が「たまたま世界に残った最後の花を」見つけ、若い男と一緒に花を育て始めるというところ。だから、荒涼とした大地に、赤い花が1本だけ残っているというイメージを抱いていました。地面が緑色だと、草原に花が咲いているような牧歌的な印象を受けてしまったのです。
その旨を川名さんにご相談。
「緑じゃないほうがいいのは、たしかに」と川名さんも同意してくださり、地面が灰色の今の装丁になりました。(この装丁は他の版元の方にもほめられることがけっこうあって、とても気に入っています)
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発売前から書店員さんの熱い感想が集まりました
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発売前にはプルーフを作りました。およそ200名の書店員さんからプルーフへのご応募いただき、感想をたくさん寄せていただきました。その感想は熱いものばかり。一部をご紹介します。
こんなにも短く誰にでもわかる言葉で戦争とはどういうものか、を伝えられるという事に衝撃を受けました。
(岩瀬書店富久山プラスゲオ店 吉田さん)
戦争は自分と関わりのないことでは決してない。これは世界中の人たちに読んでほしい。
(水嶋書房くずはモール 井上さん)
戦争ではなく他の手段で問題を解決できるはず。この物語がそれをあらゆる人に届けてくれたらいいなと思います。誰かの命を考える時間になりますように。
(川上書店ラスカ茅ヶ崎店 鈴木さん)
「戦争とは」「平和とは」今、改めて考えたい。一本の花すらなくなってしまう前に……。
(柏の葉 蔦屋書店 北辻さん)
読めば忘れられない1冊になる。
(紀伊國屋書店広島店 藤井さん)
ぼくが想像できていなかったとらえ方をしている方もいらっしゃり、この本をより深く考えるきっかけにもなりました。この本を届けたい気持ちはますます大きくなりました。
とつぜん三谷幸喜さんと電話することに
とうとう本ができあがりました!
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できあがった感動をかみしめつつ、関係のある方々への本の献本作業を進めます。当然、この本を復刊するきっかけとなった三谷幸喜さんにも本をお贈りします。TBSテレビ「情報7days」の番組スタッフさんから本を渡していただくことにしました。
7月2日の日曜日、とつぜん宣伝担当からぼくに電話がかかってきました。
「いま三谷幸喜さんから電話がかかってきて、『編集担当と話がしたい』っておっしゃってる! 辻さんから折り返し電話して!」
急な展開に驚きつつ、息を整えてから三谷さんの電話をかけました。
三谷さんとの会話をここに書くことは避けますが、「復刊してくれてありがとう」とおっしゃってくださいました。じっさいに本づくりに携わった著者やデザイナーさんなど以外の方から本を出したことでお礼を言われたのは、編集の仕事をしてきてはじめての出来事でした。
その電話から数日後、三谷さんはさっそく朝日新聞の連載「三谷幸喜のありふれた生活」で『世界で最後の花』を紹介してくださいました。そこには三谷さんのサーバーへの想いが詰まっていました。
最後には
「ウクライナでは依然として戦争が続いている。戦争が好きな人などいないはずなのに、世界からそれが消え去ることはなく、むしろきな臭さは増え続けている。そんな今、この絵本の存在価値は大きいと思う。ユーモア作家の本気の訴え。ぜひ皆さんも手に取ってみて下さい」
と、なんとも心強いメッセージを残してくださいました。
ちょっとだけでも「戦争を考える」時間を
刊行してからひとつだけ、気になることがありました。それはこの本の説明のためにぼくが書いた「なぜ人間は戦争を繰り返すのか」という言葉にたいしての、匿名の方からの反応です。
「戦争は人ある一部の人が始めるもの。『人間』と一括りにするのはおかしい」
たしかにその通り、おっしゃる通りだと思いました。
「いや、でも」とも思いました。
このコメントの真意はわからないため、ぼくの勝手な解釈になってしまいますが、「悪いのは一部の人。自分は悪くない。自分には関係ない」と言っているようにぼくには思えました。
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ぼくがウクライナ戦争の報道に慣れてしまっていたように、戦争の報道に慣れ、戦争が起きていることに徐々に無関心になっている人が多いのではないかと想像します。でも、その無関心こそが、(話がやや大きくなりますが)戦争がなくならないひとつの要因になっているのかもしれない……。前述したように、戦争が起きてしまう時代をともに生きている以上、戦争は決してひとごとではないと思うのです。
だからと言って、いきなり反戦のデモに参加するとか、直接的な行動をするのはなかなか難しい。そういうことはできなかったとしても、ちょっと立ち止まって、戦争について考える時間をもつことならできるんじゃないか。そういう小さなことの積み重ねが、未来に戦争を起こさないことにつながっていくんじゃないか……。きれいごとと言われてしまうかもしれませんが。
こんなことを書いているぼく自身も、戦争について具体的な行動をしているわけではありません。でもこの本の編集を通して、自分自身の「無関心」を自覚し、戦争について考える時間をもてたのは事実です。だいぶ遅いけど、33歳にしてやっと戦争について考えるスタートラインに立てたと言えます。
そんないまのぼくにできることは、この本を少しでも多く人に届けることだと思っています。この本が読者のみなさんの、戦争を考えるきっかけになってくれることを心から願っています。そしてこの本には、読者に「戦争を考える時間を与えてくれる力」があると信じています。
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文:企画編集部 辻敦