常識を疑わないと死ぬ

常識を疑わないと死ぬ、と思って生きている。

世間から教えられた常識。
親から教えられた常識。
先生から教えられた常識。

私たち人間はこの世界で生きていく上でのありとあらゆる規範である「常識」に基づいて生活している。
人の道を外れてはならないので常識に沿って生きることはとても大切なことだ。

ただ重要なのは「なぜその常識に従わなければならないのか?」という答えを自分の中でしっかり持つということである。

よく聞く話でいうと
子供に「なんで勉強しないといけないの?」と言われて、なんて答えていいかわからない
という話がある。
私自身もかつては漠然とした回答しか持てなかったが、社会人として生きていく上現在は自分なりに回答を導き出すことができた。
(これに関する細かい話はおいおい別エントリーでしようと思う。)
重要なことは「自分が大人になり子供を育てていく世代になるにあたり、この問いに対する明確な答えを持てないままでは自信を持って勉強に取り組ませることができない」という不安を打破する必要がある、ということである。

それ以外にも実は明確な問いを持てない常識というのはたくさんある。
「なぜ働かないといけないの?」
「なぜお年寄りには優しくしないといけないの?」
「なぜ部屋は清潔にしないといけないの?」

自分が子供の頃であれば、こう言った常識に従わないことで親や先生から怒られ、家庭や学校といったコミュニティに居場所を失ってしまうため、とりあえずは訳が分からずとも従わざるを得ない。
ただ大人になると自分でお金を稼ぐこともできるし、法律に反しない範囲であれば自由な価値観で生きることができる。答えがわからないのであれば、従う必要などない。
その中で色々な常識を大事に、モットーとして生きていくのであれば、その常識に従う理由を自分なりに持っておくことが、モットーを裏付ける自信になるのである。
なによりその裏付けがないと、一貫できない。
抽象度を上げて考えれば同じ結論になるはずの事項にも、違う判断を下してしまいかねないのだ。不測の事態が起こったときに対応ができなくなっていく。
そしてそういったズレは、自分の成果にも周囲の認識にも、淀みを落としていく。

いいやつか悪いやつかは周りが決めること。
一人の人間としては「自分はこういう人間でありたい」と思って生きていくことが重要である。
そのためには常識を常に疑い、それを凌駕する哲学で行動指針を決定して生きていくことが大切。
そうしてブレずに生きていくことで、他人や世界に影響を与えられるのだ。

「なぜ常識を疑わなきゃいけないの?」
「常識すら疑うクセをつければ、生きる上での指針の軸がグッと強くなる。」

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