ポップカルチャーと資本主義「後」への想像力——The Smiths、Radiohead、The1975における「クルマ」の表象から
要約
私たちは、資本主義「後」の世界を構想できるか——大澤真幸『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』やマーク・フィッシャー『資本主義リアリズム』など、昨今資本主義「後」の可能性をポップカルチャーを通じて模索する試みが活発化している。本論はこれらの議論を踏まえ、古今のイギリスのポップカルチャーを代表する名曲3曲(The Smiths「There Is A Light That Never Goes Out」、Radiohead「Airbag」、The 1975「Love It If We Made It」)の歌詞に注目して、資本主義「後」の可能性を模索する。ここで特に注目したいのが「クルマ」である。これらの楽曲には共通して資本主義の象徴たる「クルマ」が登場し、それぞれ異なる形で「クルマ」の破壊、乗り越えが表現されている。したがって、上の3曲において「クルマ」がいかに表現され、破壊され、乗り越えられているかを検討することは、ポップカルチャーが資本主義をいかなるものと捉え、資本主義「後」の可能性をどう模索しているかを考える一つの契機となりえる。The Smithsと交通事故、Radioheadとエアバッグ、The 1975とカーセックス——これらの楽曲から浮かび上がるのは、資本主義の堅牢な檻の中でもがき苦しむ<現実>と、それでも、資本主義「後」を何とか構想しようとする<想像力>の狭間で生きる我々の姿である(注0)。
序論
「クルマ」、近代、資本主義
「クルマ」は、近代の象徴である。クルマは、産業革命以降の技術的発展の帰結として誕生した移動手段の最たるものであり、人類の空間的・時間的可能性を劇的に変容させた。クルマ以前の社会では不可能であったことが、クルマ以後では当たり前のように可能になり、我々の暮らしを根底から変化させたということは言うまでもないだろう。
近代の象徴であると同時に(あるいは象徴であるがゆえに)、クルマは資本主義の象徴でもある。このことは、自動車産業の規模の巨大さを見れば一目瞭然だ(注1)。さらに、クルマの大量消費=大衆化現象も、クルマが資本主義の象徴であることを体現している。多くの人々がクルマを買い、消費者としての役割が相対的に向上していくことによって、クルマの存在は「平等性」と「消費主義」という資本主義社会の構造の強化に大きな影響を与えているのである(注2)。
ポップミュージック、資本主義
ポップミュージックもまた、資本主義と切っては切り離せない関係にある。かつてアドルノはポピュラー音楽の「構造的な規格化」(注3)を論い、ポピュラー音楽に対する軽蔑的感情を露わにしていた(注4)が、この批判は資本主義的なメカニズムに組み込まれた音楽が商品的性格を持つことから説明されている。つまり、「音楽の社会的価値が重要になり、有名な音楽家のコンサートを聴きに行くことがステイタスになったり新曲をいち早く歌えるようになることを求めるようになる」ことで、音楽的内容や意味が忘れられ、音楽の質が消費者の意識に上らなくなっていくのである(注5)。
このアドルノのポピュラー音楽に対する嫌悪感は少しばかり行き過ぎているような気もするが(実際に多くの論者がアドルノの主張を様々な形で批判しており、現在ではアドルノのポピュラー音楽批評を無批判で援用する論者はいないだろう)、一方で現在の音楽シーンが「アドルノ的な悪夢的な資本の支配に飲み込まれてしまっている」こともまた確かであろう(注6)。ドラマやCMのために作られるタイアップ楽曲、毎週のように次々とリリースされ消費されていく新譜、握手券付きで販売されるCDなどを見ていると、音楽が資本主義によってひどく歪められているように思えてならない。
ポップミュージックの想像力は資本主義を超えるか?
資本主義というシステムはあまりにも強大だ。我々は資本主義無き世界を想像することすら困難な時代を生きている。資本主義システムの限界は至る所で指摘されているが、音楽の過度の商業主義化の問題は資本主義システムが存続する限り完全に解決されることはないだろう。むしろポップミュージックに関して言えば、そもそも資本主義の中で生まれたものであり、その意味で資本主義とポップミュージックは表裏一体の関係にある。
大澤真幸の『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』とマーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』は、資本主義に代わるシステムを考える際にポップカルチャーにヒントを見出そうとする。前著は、我々が未だ「資本主義後」の世界を想像できていないとして、サブカルチャーがその世界を想像することができるのかを模索したものであり(注7)、後著は、「資本主義は唯一の選択肢である」という認識が、実際の資本主義の頑健さ以上に人々に信じ込まれてしまっているという認識を「資本主義リアリズム」と表現し、「資本主義は本当に唯一の選択肢なのか」をイギリスのポップカルチャーを踏まえつつ再考したものである(注8)。
果たして、日本とイギリスでほぼ同じ時期に資本主義後の可能性をポップカルチャーを通じて模索する著作が発表されたのは単なる偶然であろうか。否、このことは資本主義のオルタナティブを考えるにあたりポップカルチャーが大きな役割を果たしうることを裏付ける事象であると考える。本論は大澤やフィッシャーに倣い、ポップカルチャーの想像力を援用し、いかなる資本主義「後」が構想可能かを模索する。ポップカルチャーのうち本論が取り上げるのは、ポップミュージック、特にイギリスのロックミュージックである。以下、80年代、90年代、10年代を代表するイギリスのロックミュージックを代表する名曲であるThe Smiths「There Is A Light That Never Goes Out」、Radiohead「Airbag」、The 1975「Love It If We Made It」において資本主義の象徴たる「クルマ」がいかに描かれているかを確認し、資本主義「後」のためのポップカルチャーの想像力の一片を提示したい。
交通事故という劇薬——The Smiths「There Is A Light That Never Goes Out」
The Smithsの「There Is A Light That Never Goes Out」は、同バンドを代表する名曲であるに留まらず、イギリスの80年代の音楽シーンを代表する楽曲である。本楽曲がいかに優れているかは他に譲るとして、ここでは同楽曲において「クルマ」がいかなる意味を持っているかを考えたい。
ここでは、家を追い出され帰る場所もない主人公が「あなた」の車に乗って行くあてもなくさまよう様子が伺える。
そしてサビでは「二階建てバスや10トントラックに轢かれても、君の隣で死ねるならそれもいいね」と、恋愛感情と自殺願望が渦巻いている状況が歌われている。家族に絶望した少年(少女)が一方で恋人に無垢なまでの信頼を寄せている様子はとても純粋で、ある種の美しささえも感じさせる。
ここで交通事故は、家族(=現実)から逃れるためのもの、そして恋人(=夢)と永遠に一体化するものとして描かれている。つまり、ここで主人公は「クルマ」という現実社会の象徴を劇的に破壊させることで、現実の鎖を引きちぎり、非現実の世界へと没入しようと企てているのである。
現実社会の象徴としての「クルマ」を劇的に破壊する交通事故を神聖視するこの歌詞は、同時に現実社会=「資本主義」の鎖を引きちぎろうとする試みであるといえる。このことは、The Smithsのバンドとしてのスタンスから裏付けられる。The Smithsは労働者階級出身のバンドとして、サッチャー政権によるネオリベラリズム的政策への批判やバンド・エイドに対する批判を展開していたことで知られている。彼らは労働者階級の代弁者として、失業率の増加、「低賃金経済」の形成、南北の階級格差の拡大に声高に反対し、インタビューでは「マーガレット・サッチャーの歴史全体は、暴力と抑圧と恐怖の歴史だ(The entire history of Margaret Thatcher is one of violence and oppression and horror)」とサッチャー首相を名指しで強く批判するなど、反体制の姿勢を貫いていた(注9)。アンドリュー・ウォーンズが「最も反資本主義者のバンドの一つ(most anti-capitalist of bands )」と定義づけているように(注10)、The Smithsは保守党の新自由主義政策に反対する「反資本主義者」であったのであり、このことを考慮するならば、上の解釈(交通事故による「クルマ」の劇的な破壊=資本主義の鎖を引きちぎる試み)は十分妥当性を得る。以上をまとめるならば、The Smithsは「There Is A Light That Never Goes Out」において、資本主義の象徴たる「クルマ」を交通事故で劇的に破壊することによって、資本主義の鎖の破壊を試みた、と結論付けられよう。
しかし、交通事故という劇的な「クルマ」の破壊もまた、資本主義・消費主義に回収されてしまう。ボードリヤールは『消費社会の神話と構造』第一部で「消費社会が交通事故を必要としている」と記している。我々は「まさしく何も起こらない場所」=日常生活のシステムの中で、現実的・社会的・歴史的な世界をできるかぎり排除することを目指している一方で、「本質的に自発的で行動的であり有効性と犠牲を旨とする社会的モラルの規範との間の矛盾」を抱えることとなる、というのである。つまり、安全で苦労の心配がない世界にいる我々は、その受動性を罪深く、負い目に感じてしまう。この負い目を取り除き、おのれの安全の選択を正当化するために、暴力と非人間性の象徴として「交通事故」が必要とされるのである(注11)。
この一文を読んでいると、結局我々は資本主義から逃れられないのではないか、とニヒリズムに陥ってしまいそうになる。「クルマ」という資本主義の象徴の破壊もまた資本主義のシステムに呑み込まれてしまうとするならば、我々は資本主義にどう対抗すればよいのだろうか。
保証された安全という皮肉——Radiohead「Airbag」
The Smithsが交通事故によってラディカルに現実社会からの逃避を図ろうとしていたのと対照的に、Radioheadの「Airbag」では交通事故がエアバッグによって防止される様子が歌われる。
だが、ここで歌われている「エアバッグが私の命を救ったんだ」というフレーズは全くの皮肉でしかない。「Airbag」が収録されているアルバム「OK Computer」のアートワークに目をやると、「飛行機が墜落した時の避難方法を伝える機内パンフレット。迷子のピクトグラム。郊外の建売り住宅。モノとヒトを効率的に運ぶモータリゼーション。ビジネスマンとがっちり握手する男」(注12)が描かれていることから分かるように、「『適応しろ、幸せになれ』とばかり企業や国家が売り歩く幸せや安全、便利さとは、実のところ恐怖を植え付けることでしかない」(注13)ということがこの歌詞で表現されている。大企業や国家権力は、消費者に交通事故の危険性とエアバッグによる回避可能性を説くことで一種脅迫まがいの形で商品の購入を迫り、安全を売り歩く。実際に、こうした国家による「自己の安全」の強制は、イギリスにおけるシートベルトをめぐる議論で顕在化したという。
今ではシートベルト装着が義務となっていることは至極当然のことだと思えるかもしれないが、「『自分の命』を『守らなければいけない』という義務は、個人の自己決定権の侵害である」という主張は無下に否定できるものではないだろう。
そして、シートベルトがわざわざ締めないと機能しないのと異なり、エアバッグは事故が起これば自動的に機能する。この段階になると、もはや自分の持ち物たる「クルマ」をどのように使うかという「自らの所有物を自由に使用する権利」が完全に失われ、個人のコントロールを超えたところに存在することとなる。自己の権利は「安全」を盾に失われ、国家や企業という大きなシステムの中で、我々は飼い殺されてしまうのだ。
資本主義=大企業・国家権力という大きなシステムは、個人の私的領域にも侵入し、個人の生活をも管理する——Radioheadの現代社会の描き方は非常に悲観的であるが、一方で彼らは「大きなシステム」に対する批判を止めることはない。以下、「Airbag」から少しばかり回り道をして、同曲と同じアルバム(「OK Computer」)に収録されている「No Surprises」に目を向けて、彼らの「大きなシステム」に対する態度を確認したい。
「No Surpirses」は、鉄琴とアルペジオが響く微かな幸福感に彩られた美しいバラードであるが、「皮肉さ。全くの皮肉。これ以上無理っていうくらいにね。あの曲をまんま解釈するなんて、できるわけないよ」(注14)とトム・ヨークが話しているように、歌われている内容は全くの皮肉である。一見するとそこに描かれているのは郊外の平凡な生活であるが、平凡に見える日常が一方では世界の環境破壊に加担しているというのにそれに全く気付かない、そんな中流階級の「事なかれ主義」を皮肉っている。「I’ll take a quiet life and a handshake of carbon monoxide(穏やかな暮らしを送るつもりだよ。一酸化炭素を受け入れて。)」という一節にも表れているが、「no alarms and no surprises(平穏であれ。何も起こらないでくれ。)」と願う先進国に住む市民たちが、実はプラスチックを燃やすなど環境破壊に(それもほぼ無意識的に)貢献しており、世界の平穏を破壊する一端を担っている、という残酷な真実を見事に歌い上げている。
こうして、「自分の幸せは誰かの幸せを犠牲にすることでしか成り立たない」というあまりに残酷なテーゼにたどり着いてしまったRadioheadだが、このテーゼには、資本主義を乗り越える可能性が秘められている。見田宗介は、近代における資本主義システムが、発展途上国という「外部」の搾取によって存立してきたことを改めて直視し、搾取なき世界の可能性を、社会の消費化・情報化に見出している。
Radioheadと対照的に、見田は技術的進歩にポジティブな意味を見出そうとする。この意見の相違は、情報化・消費化社会の両義性を示しているといえる。すなわち、情報化・消費化は個人の権利を縮小させる可能性がある一方で、新たな消費の可能性、需要の無限空間を切り開く可能性を秘めているということである。
Radioheadは、国家、大企業が推し進める権力的な消費主義によって個人の権利が失われてしまうと警笛を鳴らす。資本主義は国家や大企業と結びつき「大きなシステム」(オーウェル的監視・管理社会)として我々の私的空間をも支配する。だが、同時に先進国に生きる我々は、この「大きなシステム」(グローバル資本主義、グローバル金融システム)から恩恵を受け、平凡な暮らしを享受している。我々の安寧は第三世界を搾取することで成り立っているのであり、我々の幸せは他者の幸せを犠牲にすることで成り立っている。だが、この残酷な真実に直視したとき、資本主義「後」の可能性が拓かれる。それは、他者収奪的でしかあり得なかった資本主義の「非収奪的な可能性」であり、「情報化・消費化」社会が拓く新たな資本主義の可能性である。そこで「情報」は自己目的的な商品=資源収奪的、他社会収奪的ではない商品として、膨張を続ける資本主義のシステムを外部の搾取なしで維持させることを可能たらしめる一片の希望となる。
その意味で、ここまでの議論からは資本主義「後」の可能性については、消極的な結論しか導けないこともまた認めなければならない。上の議論は要するに情報が「よりよい資本主義」を可能にしうるという話であり、「資本主義ではない何か」を志向しているわけではないからだ。
資本主義は我々の生活をも支配する。資本主義「後」の可能性は未だ見えてこない。——だが、Radioheadのメッセージは、資本主義システムが「外部の搾取」によって成り立っているという現実を我々に突きつける点で意義深いことは間違いない。資本主義「後」の模索は困難な道のりであるが、我々に平凡な暮らしを享受する資本主義が誰かの犠牲の上に成り立っていることに気付いたとき、我々は立ち上がる。ただし、ここで問題なのは「よいよい資本主義」か「資本主義ではない何か」かではなく、他者収奪的にふるまう「悪い資本主義」=現在の資本主義を改めることだ。
カーセックスと資本主義——The 1975「Love It If We Made It」
交通事故による劇的なクルマの破壊もまた資本主義の中に吸収され、エアバッグやシートベルトの義務化によって自己決定権が侵害され個人が大きなシステムの中に飼い殺されてしまうとするならば、我々は、資本主義というシステムから逃れることはできないのだろうか。The 1975のLove It If We Made Itは、この難問をまったく別の形で解決しようとする。
冒頭からカーセックスが描写されるわけだが、これはまさしく資本主義の象徴としての「クルマ」に対するラディカルな反抗である。これは、経済的・公的な空間である「クルマ」に、感情的・私的な「愛」をぶつけることで、非人格的・非感情的な資本主義の性格を無効化しようとする試みであると言える。
一方、同楽曲はその後、近代のもたらした失敗について、いくつかの具体例を交えつつ歌い上げる。
フェイクニュース、SNSの興隆、トランプ現象。このパートは、近代の失敗を、特に情報化の観点から歌ったものである。我々は世界中の情報を瞬時に入手できるようになり、同時に情報を発信することも可能になった。しかしながら、この情報化は「何が真実か」を覆い隠してしまい、相互不信と社会の分断を招くことになった。見田が情報化に希望を見出したのは1990年代末のことであったが、21世紀の社会のありようを見ていると、情報化の良い側面以上に負の側面が目立っているように思う。
次のパートでは、ドラックの過剰摂取、メンタルヘルス、自殺といった現代に生きる個人を襲う不安が歌われる。近代社会が一つの大きな理想に向かい、その中で個人は社会的存在として生きていたのに対し、現代社会において理想は多元化・断片化し、その中で個人は社会的紐帯を喪失する。個人主義化は伸長し、個人の孤独はより一層深まる。以前のように絶対的な正解(神、理性、進歩など)が存在しない世の中では、どうすればよいかもわからないし、誰も教えてくれない。
出口のないこの現代で、我々はたださまよい続けるしかないのか。The 1975の「Love It If We Made It」は、そんな時代だからこそ「何かを成し遂げることは素晴らしいんだ」と歌う。現代が正解や意味を教えてくれないどうしようもない世界であるとしても、我々はそんな世界で生きなければならない。ニヒリズムに陥ってばかりいては淘汰されてしまう。そんなどうしようもない世界だからこそ、「何かを成し遂げること」はただそれだけで素晴らしいのだ。
結論に代えて
本論は、ポップミュージックにおいて資本主義の象徴としての「クルマ」がいかに表現されているかを追うことで、彼らが資本主義をいかにして乗り越えようとしたのかを考察してきた。The Smithsは「There Is A Light That Never Goes Out」で、「二階建てバスや10トントラックに轢かれても、君の隣で死ねるならそれもいいね」と交通事故によって現実=資本主義の鎖を引きちぎろうとし、Radioheadは「Airbag」で、国家や企業が人々に「安全を強制」することで我々は「大きなシステム」=資本主義に飼い殺されているという現実を悲観的に描き、The 1975は「Love It If We Made It」で曲の冒頭から「We're fucking in a car」とカーセックスを描写することでラディカルに資本主義を乗り越えようとした。
だが、そもそもにおいて彼らの音楽がポップミュージックである以上、彼らは資本主義なしでは存在することすらできない。実際に彼らのメッセージをここまで考察してきたが、悲観的な結論しか導けないような気がしないでもない。つまり、結局ポップミュージックは資本主義に吸収され飼いならされてしまうのだと、資本主義のオルタナティブを構想することは難しいのだと。
そんな状況だからこそ、「何かを成し遂げることは素晴らしい」とThe 1975は歌い上げた。どうしようもない世の中だからこそ、そんなポジティブさが必要なのである。ドラマチックな自殺も、厭世的後ろめたさも、21世紀を生き抜くためには役に立たない。必要なのは特別な何かじゃない。何を成し遂げたかじゃない。ただ、ほんのすこしポジティブに、何かを成し遂げようとする自分を肯定してあげることである。The 1975の「Love It If We Made It」には、そんな微かな希望が隠されている。
脚注
(注0)本論は3年ほど前にrockin' on「音楽文 powered by rockinon.com」に投稿した文章を一部加筆・修正したものとなります。なお、「音楽文」は2022年3月31日にサービスを終了しており、元記事は消滅しています。
(注1)日本の自動車生産額は20兆円にも及び、国家予算の1/4ほどとなる。高田公理. (2008).「日本社会と自動車」より
(注2)藤井聡. (2008)「自動車を巡る社会哲学的論考——かしこいクルマの使い方を考える」
(注3)「規格化」されたポピュラー音楽は複雑な表現を思考させず、単純な面だけ取り出して聞くよう仕向けるという指摘。規格化された音楽内容は聴取の仕方も規格化し、我々を自律的思考から遠ざける(=聴取の退行)。(上利博規. (2005).「アドルノのポピュラー音楽批判の限界——音楽文化論の組み換えのために」より)
(注4)テオドール・アドルノ. (1970).『音楽社会学序説』、(1971).『不協和音——管理社会における音楽』など
(注5)上利博規. (2005).「アドルノのポピュラー音楽批判の限界——音楽文化論の組み換えのために」
(注6)毛利嘉孝. (2007).『ポピュラー音楽と資本主義』
(注7)大澤真幸. (2018).『サブカルの想像力は資本主義を超えるか』
(注8)マーク・フィッシャー. (2018)『資本主義リアリズム』
(注9)Sean Murray (2016)."The Smiths Were Way More Subversive Than We (and David Cameron) Care to Remember". Pitchfork.
(注10)Andrew Warnes (2008). "Black, White and Blue: The Racial Antagonism of the Smiths' Record Sleeve". Popular Music. 27(1): 135–149.
(注11)ジャン・ボードリヤール. (1979).『消費社会の神話と構造』
(注12)田中宗一郎. (2017).「OK Computer OKNOTOK 1997-2017ライナーノーツ」
(注13)田中宗一郎. (2017).「OK Computer OKNOTOK 1997-2017ライナーノーツ」
(注14)rockin' on『rockin' books vol.7 RADIOHEAD』p.96