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「転がる石」をめぐる音楽史——Bob DylanからASIAN KUNG-FU GENERATIONまで

A rolling stone gathers no moss——転がる石には苔が生えない

 A rolling stone gathers no moss=「転がる石には苔が生えない」という英語の諺がある。この諺には、肯定的な意味と否定的な意味の二つの意味がある。一つは、「転がる石」を一つのことに注力せずに中途半端に転々とすることの例えだと考えるもので、「転々と職を変える人は大成できない」といった際に用いられる語法である。主にイギリスで用いられる語法で、要すれば「転がる石」をネガティブに捉えるものである。
 もう一つは、「転がる石」を常に活発に行動していることの例えとして捉えるもので、「常に活発に行動している人は時代に取り残されることがない」といった際に用いられる語法である。こちらは主にアメリカで用いられ、「転がる石」をポジティブに捉える見方に立つ。
 日本語に同様の諺はないものの、「石の上にも三年」という諺は、石の上で留まること=苔が生えることをどちらかというとポジティブに捉えているものだと言え、その意味では落ち着いて一つのことを成しとげることをよしとするイギリス型に近いと言える。ただし、日本への流入当初、この諺はアメリカ型の意味を伴っていたとの説もある。元々はアメリカ型の意味で流入してきたのだが、これが、国歌(「君が代」)の歌詞に使われている「苔」に否定的なニュアンスが込められているのはよろしくない、ということでイギリス型の語法に転換したというのである(注1)。

音楽における「転がる石」

 「転がる石」=”rolling stone”は、ポピュラーミュージックの黎明期から主題となり、現在に至るまで繰り返されている重要なキーワードである。Bob DylanのLike A Rolling Stone、ロックバンドThe Rolling Stones、音楽雑誌ローリングストーン——どうやら音楽と「転がる石」の間には、切っても切れない不思議な縁があるようだ。
 この音楽と転がる石の関係を遡ると、ハンク・ウィリアムズのLost Highwayという一つの源流に突き当たる。同曲の歌い出しを引用しよう。

I’m a rolling stone, all alone and lost
私は転がる石、孤独で迷っている
For a life of sin, I have paid the cost
罪深い人生の代償を払ってきた

Hank Williams「Lost Highway」

ここでのrolling stoneはalone、lostと共に使われていることから明らかなように、ネガティブなものとして扱われている。そして、この「転がる石」のイメージ——迷い、彷徨い続ける存在——は後世に大きな影響を与えることとなる。
 マディ・ウォーターズのRolling Stoneは、ハンク・ウィリアムズのLost Highwayの翌年にリリースされた。バンドThe Rolling Stonesや雑誌ローリングストーンの名前の由来となるなど、「転がる石」が音楽の婢となる大きなきっかけとなった楽曲である。

Well, my mother told my father,
母は父に語った
Just before hmmm, I was born,
俺の産まれるちょっと前
"I got a boy child's comin,
男の子が産まれそうだ
He's gonna be, he's gonna be a rollin stone,
この子はきっと「転がる石」になる
Sure 'nough, he's a rollin stone
本当に「転がる石」になりそうだ
Sure 'nough, he's a rollin stone"
Oh well he's a, oh well he's a, oh well he's a
本当に「転がる石」になりそうだ

Muddy Waters「Rolling Stone」

このrolling stoneはしばしば「風来坊」的な意味で解されてきたが、実のところこの歌詞のみから「転がる石」のニュアンスを確定させることは難しい。だが、この楽曲名を由来に持つバンドThe Rolling Stonesは自身の不良的なイメージとともに、「転がる石」=「ならず者」「風来坊」の等式を定着させた。あちこち転がりまわる根無し草の野郎、職業不詳の浮浪者——The Rolling Stonesの登場とその世界的活躍は、「転がる石」のイギリス的な解釈を広げる一翼を担ったのである。
 そして、The Rolling Stonesのデビューから3年後にリリースされたBob DylanのLike a Rolling Stoneにおいて、ハンク・ウィリアムズ的な「孤独・迷い」としての「転がる石」と、「浮浪者・根無し草」としての「転がる石」のイメージが結びつく。同曲では、ミス・ロンリー(Miss Lonely)という架空の女性が落ちぶれていく様子が描かれる。裕福で高学歴だった彼女は、食事もままならない程の路上生活者へと転落していく。

How does it feel, how does it feel?
どんな気分だい?
To be on your own, with no direction home
ひとりぼっちで、帰るあてもない
A complete unknown, like a rolling stone
知り合いすらいなくて、転がる石みたいになって

Bob Dylan「Like a Rolling Stone」

ここでrolling stoneは孤独な浮浪者の比喩として用いられており、社会的に孤立した厳しい状況が表現されている。

When you ain’t got nothing, you got nothing to lose
何も持っていないなら、何も失うものはない
You’re invisible now, you’ve got no secrets to conceal
誰からも見られていないなら、隠すべき秘密なんてないだろう

Bob Dylan「Like a Rolling Stone」

一方、最後には希望や励ましのような兆候が微かに認められるフレーズもあり、根無し草であることが積極的に捉え直される。すなわち、「何も持っていないこと」は「何も失うものがないこと」に、「透明であること(be invisible)」は「隠さねばならない秘密などないこと」に、それぞれ再解釈されるのである。
 さて、Like a Rolling Stoneに認められるこのポジティブな残滓を強調することになるのが、1971年リリースのニューヨーク出身のシンガーソングライター=ドン・マクリーンによる楽曲American Pieである。

Now for ten years we've been on our own
いままでの十年間、僕たちは自力でやってきた
And moss grows fat on a rollin' stone
転がる石にはコケが分厚くまとっている
But that's not how it used to be
だけど昔はそんなんじゃなかった

Don MacLean「American Pie」

上の印象的なフレーズは、「転がる石」をめぐる二つの分裂を見事に結びつける。変化に取り残されて錆びてしまうものとしての「苔のついた転がらない石」でも、中途半端に転々として大成しないものとしての「苔のつかない転がる石」でもない、「苔のついた転がる石」。転がっても必ずしも苔がなくなってしまうわけではなく、むしろ、転がることでたくさんの苔を得ることができる。70年代のアメリカにおいて、このように、転がることにポジティブな意味づけがなされることになるのである。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONと二つの「転がる石」

 ここまで、50年代〜70年代の音楽史を遡り「転がる石」がいかに歌われてきたかを概観してきた。ハンク・ウィリアムズ以降、ポップミュージックの領域における「転がる石」をめぐる表象は、イギリス的なネガティブなものとして出発し、さまざまな変化を経て、70年代のアメリカにおいてポジティブなものとして再定位されることとなる。
 では、果たして日本のポップミュージックにおいて、「転がる石」はどのように歌われているのだろうか。本論では、「転がる石」のモチーフが複数の楽曲でみられるアーティストとしてASIAN KUNG-FU GENERATIONを取り上げる。以下、彼らの楽曲のうち、「転がる石(岩)」について歌った二つの楽曲に着目し、それらにおいて「転がる石」がいかなる意味を有しているかを考える。

「転がる岩、君に朝が降る」——転がることの受動性と能動性

 2009年リリース の4枚目のアルバム『ワールドワールドワールド』収録の「転がる岩、君に朝が降る」は、タイトルが示すとおり、「転がる石(岩)」をテーマとした楽曲となっている。

何を間違った?
それさえもわからないんだ
ローリング ローリング
初めから持ってないのに胸が痛んだ
僕らはきっとこの先も
心絡まって
ローリング ローリング
凍てつく地面を転がるように走り出した

ASIAN KUNG-FU GENERATION「転がる岩、君に朝が降る」

ここで「ローリング」=「転がること」は、よく分からないままに転がっていくという受動的な意識と、一方で地面を走り出すという能動的な意識の両方を有している。転がって進んでいることをマクロな視点から捉えれば、それは自分の人生がどこに向かっているかわからないまま日々を生きているという認識に到達する。一方で、転がっていることをミクロに捉えれば、この転がることに最初にエネルギーを与えたのは、転がり動いているのは、他でもない自分であるということに気づく。我々は、必ずしも明確な人生のビジョンを持たないが、それでも懸命に毎日を走っている(注2)。

岩は転がって 僕たちを
何処かに連れて行くように ように
固い地面を分けて命が芽生えた
あの丘を越えたその先は
光り輝いたように ように
君の孤独も全て暴き出す朝だ

ASIAN KUNG-FU GENERATION「転がる岩、君に朝が降る」

我々は、日々何をするか、どんな選択をするかという具体的な局面においては自らの意志でそれを選び取っているという意識を確かに持っていると同時に、そうした積み重ねによって形成される人生は、転がる石のようにどこに向かっているか分からないものだと考える。確かに岩を転がし始めたのは我々自身だが、転がり出した岩は「僕たちを何処かに連れて」いってしまう。
 こうして転がりながら日々を生きていくと、あるとき、「あの丘を超えたその先」にたどり着く。「転がる岩、君に朝が降る」から15年の月日を経てリリースされた「石上ヒルズ」の以下の一節は、「転がる岩」の行き着く先を示唆している。

転がる岩ならどこまでも行ける
波の向こうの
空の向こうまで

ASIAN KUNG-FU GENERATION「石上ヒルズ」

 転がることは、受動的で訳も分からぬまま進んでいくという意味で、一面的にはネガティブな様相を有している。だが、その転がりは確かに自分のものであり、具体的な日常に目を配れば、我々はたくさんのことを自分で選択している。「転がる岩」が我々の人生の比喩なのだとすれば、それは、我々が社会の中で、自分自身で制御することのできない環境や他者とのかかわりの中で、生きているということと、それでも日々私は私として、自分の意志に基づく選択を積み重ねているということ——「転がること」の持つ能動性と受動性の両側面をあらわしているのではないだろうか。

「ローリングストーン」——円環する過去と現在

 「ローリングストーン」は、2014年に開催された10周年ライブにおいて来場者特典として配信された楽曲で、後に『フィードバックファイル2』にてCD化された楽曲である。
 同楽曲は、「ローリングストーン」=「転がる石」を「円になって回転する」ものとして描く。

退屈を煮詰めた僕の十代も
暗いトンネルのようだった二千年代も
朝靄とネクタイ 満員電車を
乗り継いでやっと辿りついた 今日

繋がって 円になって回転する
ロックンロール

ASIAN KUNG-FU GENERATION「ローリングストーン」

「私」の歩み(=僕の十代)と「社会」の歴史(=二千年代)の結節点に、私と社会の今日=イマがある。ここで、「ローリングストーン」=「転がる石」は、「過去(僕の十代と二千年代)と現在(今日)」、「個人(僕の十代)と社会(二千年代)」を結びつける輪・円のメタファーとして描かれている。

愛はないぜ 未来もない気分はどう?
ローリングストーン
心などないぜ 悲しくもない
それはどう? ローリングストーン

ASIAN KUNG-FU GENERATION「ローリングストーン」

上の一節は明らかに、ボブ・ディランのLika a Rolling Stone("How does it feel?"「気分はどう?」の一節)を意識している。愛も未来もない時代。「転がる石」が孤独な浮浪者の表象であるとするならば、今、必要なことはその「転がる石」を社会の輪に繋ぎ止めることである。「ローリングストーン」は、「転がる」ことのイメージを輪・円として解釈しなおし、苦しみながら生きるそれぞれの「転がる石」を、過去と現在の、個人と社会の、つながりのなかで捉えなおす。それは、「転がる石には苔が生えない」という諺においてある種直線的に(クロノス的に)捉えられていた「転がる石」を円環的に捉えるという点において、「転がる石」に新たな意味を付与していると言えるのではないだろうか。

「転がる石」の可能性

 あるインタビューで、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのVo.後藤正文は、「ロックンロール」という言葉から連想することを問われ、以下のように答えている。

「そうか、こうやって世界を転がっていけばいいんだ」って思ったんです。これがロックンロールっていうことなんじゃないかって。初めて自分の音楽が国境を越えて、5,000人以上のオーディエンスが僕たちの音楽を知っていて、輪になってモッシュをしていて、そこにある種の可能性を見たというか、ホントに不思議な体験でした。最初は石が飛んでくるかなって思っていたんですけど(笑)。あのステージで感じたエネルギーが、物理的にもイメージとしても僕らをどこにでも自由に連れて行く可能性を持っていて、「このまま転がっていきなさい」って言われてるような気がしたんです。

CINRA「古川日出男×後藤正文(ASIAN KUNG-FU GENERATION)対談(前編)」(https://www.cinra.net/article/column-nam-1_04-php

転がっていくこと——それは自分では止まれないという受動性を孕んでいると同時に、どこにでも自由に行くことができるというポジティブな、自由な可能性をも孕んでいる。上で確認してきたように、「転がる岩、君に朝が降る」は「転がる石(岩)」をめぐる受動性と能動性の二面性を示していた。同時に、転がることは、我々がみな転がりながら生きているということは、過去と現在が、個人と社会が、一つの輪で繋がっていることの証でもある。「ローリングストーン」は、「転がる石」を輪・円のイメージにおいて解釈しなおし、孤独な浮浪者を時間的・空間的円環のなかにつなぎとめた。世界を転がっていった結果、後藤正文が見た景色は、海外のオーディエンスが輪になってモッシュをしている光景であった。
 「転がる岩、君に朝が降る」と「ローリングストーン」に共通しているのは、「転がる石」が多義的に、そして重層的に捉えられているということである。「転がる石、君に朝が降る」はそのネガティブなコントロール不可能性(=受動性)とポジティブな可能性(=能動性)の両面を描き出し、「ローリングストーン」はそれを自己の過去との対話として、そして同時に個人と社会の対話として歌い上げたのである。

結びに代えて

 本論は、「転がる石」=“rolling stone”がいかに歌われているかを主にアメリカの50〜70年代の楽曲およびASIAN KUNG-FU GENERATIONの楽曲から検討した。
 前段では、現在のポップミュージックシーンにおいても頻出する「転がる石」にかかるイメージがその黎明期にいかに形成され変遷を経てきたかを概観し、「転がる石」とポップミュージックの不思議な関係の原点を辿った。ハンク・ウィリアムズ以降、ポップミュージックの領域における「転がる石」をめぐる表象は、イギリス的なネガティブなものとして出発し、さまざまな変化を経て、70年代のアメリカにおいてポジティブなものとして再定位された。
 後段では、近年の日本のポップミュージックに目を転じ、「転がる石」のモチーフが複数の楽曲でみられるアーティストとして、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの楽曲にフォーカスした。彼らの楽曲において、「転がる石」はポジティブな側面とネガティブな側面を併せ持つものとして、個人と社会、過去と現在の繋がりを示すものとして表現されていた。
 「転がる石」が人生の比喩なのであれば、「転がる石」をめぐる評価は生き方をめぐる評価に他ならない。その意味で、時代や社会が変われば、「転がる石」=生き方に対する評価は180度変わりうる。伝統を重んじる保守的な社会・環境であれば、「転がる石」のように職や住処を転々とする生き方はネガティブなものと見做されうるし、逆に、変化を是とする革新的・リベラルな社会・環境であれば、「転がる石」はポジティブなものと見做されうる。日本社会における転職をめぐる評価の変遷一つとってもこのことは明らかだろう(注3)。そのように考えると、ASIAN KUNG-FU GENERATIONの楽曲における「転がる石」の多義的・重層的な位置付けは、現代の我々の生の現象学的な意味、あるいは構成的なあり方を示唆しているといえる。我々は自由意志と決定論のはざまを揺れ動きながら、歴史や社会といった文脈の中でもがきながら、人生を生きる——転がる石のように。

脚注

(注1)この辺りの事情は、佐々木信行(2015)「諺を科学する——「転石苔を生ぜず」の真実——」に詳しい。すなわち、「わが国においても英国流の解釈がなされる場合も出てくるようになり,辞書においても二つの意味が併記されるようになる.その理由の一つに,わが国の国家「君が代」の中にも苔の語が入っており,苔は岩石や樹皮などについて生育する植物で,本来日本人にとってはなじみのあるものであるが,その苔がアメリカ式の沈滞やつまらないことの象徴として使われるのはまずい,ということもあるのかもしれない.そして,ここは英国式のように苔を価値のあるものや伝統の象徴のようなものととらえ,格式ある植物として扱おう,言いかえれば,苔をコケ(虚仮?)にしないようにすべきである,という力が働いたのではないか,とも考えられる.」(p.115)というのである。
(注2)キャリア理論において、「山登り型キャリア」と「川下り型キャリア」という理念型があるが、ほとんどの日本人が後者の思想を有している(https://toyokeizai.net/articles/-/615526?page=2)ことは、こうした思想が我々に非常になじみのあるものであることを裏付けている。
(注3)https://rc.persol-group.co.jp/thinktank/spe/pgstop/2022/など。「転職を積極的にしていくほうがよいことだ」に肯定的回答をする者の割合はここ数年で見ても高まっている。

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