もう少し夢を見させていてほしかった
わたしには、街を歩き回るという癖がある。
好いた人や恋人がいる時には、会えない時にその人を思いながらダラダラと歩き続ける。
そういう人が特にいないときもやっぱり、これまで出会った好きなもの、映画とか音楽とか小説とか、そういうものを思い返して反芻しながら歩き回る。
歩き回ろうと歩き回らまいと、頭の中では常に反芻が起こっていて、味が無くなったガムを所在なく舌で転がすように、考える必要もないことをコロコロ転がしている。
多分、要領の良い人は絶対こんな脳みその使い方はしないし、「今必要ないな」ということはシャットアウトできるのだろう。
もう要らない、と思ったものをすぐに捨てられる人は、多分味のなくなったガムをずっと噛んでるってこともないのだろうと思う。
だけど、私にはそれができないから、考えても仕方ないことをコロコロ転がしているし、味のなくなったガムの捨て時も分からない。
ほら、掃除してて自分で要らない、と思ったものも、しばらくすると愛おしく感じて、やっぱり捨てるのやめようかなって、延々とそんな感じ?
嫌いだ、無駄だ、要らないと思ってても、それを手放すこともやっぱりできなかったりするし。
そもそも、嫌いだ、無駄だ、要らないって頭の片隅で「理解して」も、本当は自分でもそうは思ってない可能性も高いし。
コロコロコロコロ、夜になるたび、週末になるたびに、色んな無駄なことを考えてしまうのだ。
そんならまだ歩いたほうがカロリー消費や健康に良かろう、と、それはもう中学生の頃から、反芻思考が起こる時には歩き回ることに決めていた。
ぼんやり、真夜中から明け方まで街を歩き回るようになって、そのうちに色々なものを見つけるようになった。
鳥は夜も鳴くとか、明け方には鳥たちが川辺に屯してるとか、皆が寝静まる頃に仕事が始まる新聞の配達所の人の動きとか、一瞬緩む警備員さんの表情とか。
色々見つけた中でも、デパートや商業施設のショウ・ウインドウや、小さいお店の改装が夜間に行われているのは面白かった。
大抵、お店の前には大きめの車が止まっていて、何人か作業す人が忙しなく出入りしている。
そのうちの何人かは、ショウ・ウインドウの中に入って、細かな飾り付け作業をしたり、店舗のロゴの部分を調整したり。
作業員のお兄さんやお姉さんが大変慎重に、中の飾り付けをやっている様子が、愛おしくて可愛いんだよね。
ピカピカに磨かれた飾り一つ一つがお店を彩っていく様子はウキウキしたし、次は何をするのかな、と、そういう楽しみもあって、なんだか恋の始まりみたいなんだよね。
だけど私はもう知ってしまってるんだよね。
入れ替わりの早いこのエリアで、お兄さんやお姉さんが丁寧に貼り付けている可愛いオブジェや、キラキラ光る可愛いロゴが、多分1年後にはもうなくなって、別のお店になっていることを。
愛おしい光景を刻んだ私の目は、やっぱりそれらが撤去されてる光景もいくつも見てきてしまった。
ショウ・ウインドウを飾ったり、それを撤去したりしてる人たちはただ仕事をしているだけなのに、通りすがりのセンチメンタルな中年の私は変に深く考えてしまうことがあって、自分のこういうメンタリティにも気持ち悪さを感じる。
恋の始まりだと思った「始まりの光景」の反対は、やっぱりそのまま恋の終わりを意味してるような印象で、心は跳ねたり、終わりを予期して、または実際に終わりを見たりして、沈んだりする。
たまに思うんだよね、キラキラしたシールや店名のロゴを剥がす手を止めて、
「やっぱりこれ可愛いからもう少し飾っとこうよ」
って、誰か言ってくれないかなって。
まぁ誰も言わないよね、知ってる。
私も言わないし。
お店は閉店だし、次の借主は決まってるし、仕事は時間内に終わらせなきゃだし、そんな権限誰にもないし。
終わりは終わり。
でも終わりを終わりと思ってすぐに切り替えられる世の中に気持ちが追いつかないことってあるんだよね。
そういう人は多分他にもいるけど、みんな顔には出さない。
私も出さない。
私ができることは、考えても仕方がないことを延々とリフレインさせて、味がなくなったガムをずっと噛んで、それなのに、その一方でそれをおくびにも出さないってことだけ。
店舗工事やデコレーションにセンチメンタルを感じて、それなのに、あたかも切り替えが早いフリして、閉店のお知らせを見ても「まぁコロナで客入り悪いと此処らの賃料は払えないもんねぇ」みたいな、年相応の感想を言うことだけ。
誰か「やっぱりもう少し置いておこう」って言ってくれないかな。
誰か虚しいリフレインを止めてくれないかな。
と思ったりするけど、自分ができないことを他人に望むのも傲慢だなーってのは分かってるし。
自分がしつこくリフレインさせているものを、世の中はルールに従って、粛々と処理していく。
何なら、自分も表向きにはそうする。
それができるようになった時点で、夢を見られる人間ではなくなったということ。
とはいえ、頭のどこかで「まだ夢を見てたいな」「もう無理だよねえ」が虚しくリフレインする。